いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

現代歌人ファイル その16-武井一雄 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

武井一雄 

bokutachi.hatenadiary.jp

風は野を俺はおまえを駈け巡り過ぎ去った夏 思い返すな

 

 かっこいい!スーパー攻め様みたい(笑)。「思い返すな」って。解説には

 

 ハードボイルドと言ってもいいくらいのかっこいい文体である。断言調の語尾は力強い印象を与えるが、しかしその一方でどこか湿った情けなさをも内包している。自分の弱さや過去の思い出にがんじがらめにされながらも無頼に生きていく男の姿が浮かんでくる。

 

とあります。

 

透きとおることのできないこの俺に君のすべては重すぎるのだ

 

 この歌もめちゃくちゃかっこいいですよね。でも確かに、ハードボイルドというか、うーん、女性との精神的つながりを拒絶してる感じがするんだよなぁ。

 

 武井の歌の本領は相聞にあらわれているが、「弱くて汚れた俺」と「純粋で美しい君」との対比が基本軸となっている。思えば思う程に「君」の存在は遠くへと離れてゆき、自らの孤独は逆照射されてゆく。苦みのある敗北の歌である。

 

と解説にあるんですが、現実の女性は「純粋で美しい君」じゃないんですよ。で、それを男に伝えたいんだけど、ハードボイルドの男はそれを拒絶するんだよね。いや、弱くて汚れた俺は純粋で美しい君には相応しくないんだ、って。こちらの愛や現実を受け容れてくれないの。現実じゃないところに心があるんだよ。だから、それで「苦みのある敗北」って言われても…、って女としては思っちゃうんですよね。この歌とかも、「透きとおることのできない」あなたのままでいい、って女としては言いたいんだけど、「いや駄目なんだ、きみを受け止めるだけの強さがない」みたいな。

 で、女性には心を許さなくてどうするのかっていうと精神的にはホモセクシャルと言いますか、強い精神的つながりを持っている相手は同性っていう。絶対に恋とかセックスではないんだけど、死ぬとき傍にいたいのは親友なの。なんというか、好きな女のために、彼女を思いながら死ぬんだけど、その時そばにいるのは親友みたいな。

 

君と僕の視線は闇を見喪い背中合わせにいた至近距離

 

 この至近距離にいるのは恋人なんだろうか、それとも友人なんだろうか。そんなにそばにいるのに、「背中合わせ」で向き合うことはないんですね。相聞歌としても読めそうですが、「背中合わせ」という言葉からはなんとなく同性の友人なのではないかという感じもします。でももしそうだったら「君と僕」じゃなくて「お前と俺」とかになるのかしら。やっぱり恋人なのかなぁ。

 

 

満たされぬことも一つの証左としお前は硝子の愛だったのだ (yuifall)

 

現代歌人ファイル その15-石川美南 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

石川美南 

bokutachi.hatenadiary.jp

半分は砂に埋もれてゐる部屋よ教授の指の化石を拾ふ

 

窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ

 

 異世界の面白さです。シュールレアリスム的というか…。なんだろう、こういうワールドを持っている人ってどんな人なんだろうなぁ。話すと意外に普通だったりするのかな。狂気は内に秘めているというか。それともだだ洩れなんでしょうか。解説も面白いです。

 

 穂村弘はかつて同世代の歌人をクラスに例えるなら学級委員は米川千嘉子だろうと書いたことがあるが、それに倣えば我々の世代の学級委員は石川美南だろうと思う。ただしやんちゃな生徒を叱りつけるタイプというよりは、いつの間にか輪の中心になってみんなを引き付けているタイプの学級委員である。

 

 とあるのですが、ええー??そうなの?学級委員の作る歌、こんな奇抜なのか(笑)。もっと優等生的なやつ想像してた。『桜前線開架宣言』で言うと、澤村斉美みたいな。

桜前線開架宣言-澤村斉美 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

桜前線開架宣言-澤村斉美 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

これは、作者の人格的なことを言っているんですよね、きっと。ということは、輪の中心になってみんなを引き付けているタイプの方がこういう歌を詠むということで、とても興味深いです(笑)。

 

 この言語感覚、どこから来るんだろう?って思っていたのですが、東京外語大卒なのとも関連しているのかな。解説には「言葉に対するフェティシズム」とあり、

 

 前衛短歌的な幻視にみられる絢爛な美学はまるでない。(中略)いわば日常の裂け目に指を突っ込んで広げるような歌い方である。つまりは「世界の異化」である。水原紫苑は「文語でも口語でもない文体」と評したが、おそらく石川の中には「文語の世界」と「口語の世界」が並列で存在し「文語の世界」はいつでもどこかがねじれているのだ。そのねじれを形作ったのはおそらく深い文学的教養であり、言葉に対する偏愛的なフェティシズムだろう。

 

と、総説されています。確かに、なんというか、ビジュアル系幻視じゃないんですよね。「堕天使」とか「薔薇」とかじゃなくて「蛙」「茸」「マヨネーズ」だもん(笑)。

 その中に

 

桜桃の限りを尽くす恋人と連れ立ちて見に行く天の河

 

こんな相聞歌が入っていたりしてときめく。これって「放蕩の限りを尽くす」の言葉遊びですよね(笑)?桜桃の限り…。どんな恋人なんだろう…。太宰治の桜桃忌と何か関係が??「桜桃」という単語に意味があるの?それとも本当に純粋な言葉遊び?天の川、本当に見に行ったのかなぁ。

 

 

無人駅の切符入れ場に捥ぎ取った耳の軟骨ぎつしりとゐる (yuifall)

 

 

短歌タイムカプセル-石川美南 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

桜前線開架宣言-石川美南 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

桜前線開架宣言-石川美南 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-153 - いろいろ感想を書いてみるブログ

That Night (SWEETBOX) 和訳

洋楽和訳の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

That Night (SWEETBOX)

作詞:ROSAN ROBERTO/SCHMIDT HEIKO/VILLALON JADE VALERIE 

作曲:ROSAN ROBERTO/SCHMIDT HEIKO/VILLALON JADE VALERIE

www.youtube.com

One night in late July I saw you cross the room

Then you asked me for a dance I could hardly move (yeah)

I'd never been so scared before your touch was overwhelming

Then you led me to the floor and I swore I was dreaming

 

That night there was magic

That night I was spellbound

By your side, oh the first time

I cried, I cried

Yes, you changed my life

That night

That night

By your side, oh the first time

I cried, I cried

This night changed my life

 

We sat and talked all night the starry sky above us

You were nervous, I was shy

The butterflies of first love

Then I knocked on heaven's door when you leaned in to kiss me

I'd never been left wanting more, oh I was hardly breathing

 

That night there was magic

That night I was spellbound

By your side, oh the first time

I cried, I cried

Yes, you changed my life

That night

That night

By your side, oh the first time

I cried, I cried

This night changed my life

 

I want to have that night again

I wanna know what might have been

First love just never ends, oh why do I still miss him

 

Now life has distanced us, that summer night's long gone

But I still feel your lips when I hear our old over song

I've changed a lot since then, but I still sit and wonder

I'd like to know what might have been if summer love had lingered

 

That night there was magic

That night I was spellbound

By your side, oh the first time

I cried, I cried

Yes, you changed my life

That night

That night

By your side, oh the first time

I cried, I cried

This night changed my life

 

 

直訳

 

One night in late July I saw you cross the room

7月の終わりのある夜、私は部屋の向こうにあなたを見たの

Then you asked me for a dance I could hardly move (yeah)

あなたは私をダンスに誘って、私はほとんど動くこともできなかった

I'd never been so scared before your touch was overwhelming

こんなに怖いと思ったことはなかった、あなたの接触は圧倒的だった

Then you led me to the floor and I swore I was dreaming

そしてあなたは私をフロアに連れて行った、夢なんじゃないかと思ったわ

 

That night there was magic

その夜、そこには魔法があった

That night I was spellbound

その夜、私は魔法にかかったわ

By your side, oh the first time

あなたのそばで、初めて

I cried, I cried

私は泣いたの

Yes, you changed my life

そう、あなたが私の人生を変えた

This night changed my life

この夜が私の人生を変えた

 

We sat and talked all night the starry sky above us

私たちは座って夜通し話した、星空の下で

You were nervous, I was shy

あなたはそわそわしていて、私は内気だった

The butterflies of first love

初恋のときめき

Then I knocked on heaven's door when you leaned in to kiss me

あなたが私にキスをするために身体を倒した時、私は天国の扉を叩いた

I'd never been left wanting more, oh I was hardly breathing

それ以上のことなんて望まない、息さえできなかったの

 

I want to have that night again

あの夜をもう一度過ごしたい

I wanna know what might have been

どうなっていたのか知りたいの

First love just never ends, oh why do I still miss him

初恋は決して終わらない、どうしてまだ彼が恋しいの?

 

Now life has distanced us, that summer night's long gone

今は人生が2人を隔て、あの夏の夜は遠く行ってしまった

But I still feel your lips when I hear our old love song

でも今でも私たちの古いラブソングを聴くと、あなたの唇の感触を思い出す

I've changed a lot since then, but I still sit and wonder

あれから私もずいぶん変わったわ、でも今でも座って考えることがある

I'd like to know what might have been if summer love had lingered

もし夏の恋が続いていたらどうなっていたんだろうって

 

 

*have butterfliesとかbutterflies in my stomachで「ドキドキする」だから、「初恋のときめき」みたいな感じかな。

*なんか、英語の歌を聴いてると時々 first love never ends ってフレーズに出会うのですが、この「初恋は終わらない」って慣用表現なのかな?日本語だと「初恋は実らない」とか言う感じがするのですが。でも、なんとなくですけど、日本語の「初恋」は本当に「初めての恋」って感じで、子供の頃に抱いた淡い思い、って気がするのですが、英語の first love はもっと年が上がって、「最初の恋人」とか、何なら「はじめての人」くらいな感じがします。だがしかし、「初めて好きになった人」にせよ「最初の恋人」にせよ「はじめての人」にせよ、別に何とも思ってないわ! First love never endsとか思ってないし、this night changed my lifeってほどのことでもないわ。これは私の感性もしくは経験がクソなのか、単に英語の慣用表現になじまないだけなのか?

*で色々考えた結果、女の子目線で意訳したのがあんまりピンと来なくて、LGBTQバージョンにしてみたよ。

 

 

意訳

 

きみと出会ったのは7月の終わりの夜

ダンスに誘われて、僕は固まってしまった

あんなにおどおどしたのは初めてだった

きみに気おされてしまって

フロアに連れていかれたときは、まるで夢を見ているみたいだった

 

魔法みたいな夜だったよね

僕は夢中になって

きみの隣で初めて泣いたよ

だってきみが僕のすべてを変えてしまった

あの夜、きみの隣で

初めて泣いたよ

この夜が人生を変えたって分かったから

 

星空の下に座って、夜通し話してた

きみはそわそわしてて、僕はなんだか内気だったね

あんなにドキドキしたのは初めてで

きみが僕に身体を寄せて、その唇が触れたとき

まるで天国にいるみたいだった

自分の望みがはっきり分かったんだ

息することさえできなかった

 

魔法みたいな夜だったよね

僕は夢中になって

きみの隣で初めて泣いたよ

だってきみが僕のすべてを変えてしまった

あの夜、きみの隣で

初めて泣いたよ

この夜が人生を変えたって分かったから

 

もしあの夜をもう一度過ごせたら

僕たちどうなっていたんだろう

初恋って終わらないんだね、今でも彼が恋しいよ

 

今は2人はばらばらで、夏の恋は遠い思い出

でもあのラブソングを聴けば、きみのキスが今でもよみがえる

あれから僕も変わったよ、でもまだ時々考えるんだ

夏の恋が続いていたら、僕たちどうなっていたんだろうって

 

魔法みたいな夜だったよね

僕は夢中になって

きみの隣で初めて泣いたよ

だってきみが僕のすべてを変えてしまった

あの夜、きみの隣で

初めて泣いたよ

この夜が人生を変えたって分かったから

 

 

yuifall.hatenablog.com

短歌の「私」 ③

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

短歌の「私」 ① - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ③ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ④ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑤ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑥ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑦ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑧ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑨ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑩ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑪ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑫ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑬ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑭ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 その後しばらく「幽体離脱」的な歌(<降りますランプ>みたいなやつ)の話題の後で、

 

・一人称視点をメインに、三人称視点を適宜補いましょう、というのがアララギ

・三人称視点にぐっと振ったのが前衛短歌の塚本や寺山

・逆に一人称視点に特化したのがゼロ年代前半の完全口語短歌、永井祐や仲田有里

 

と、斉藤斎藤本人曰く「超大ざっぱ」なまとめがあります。

(台詞の内容は斉藤斎藤ですが、箇条書きにしたのは私です。あと、「仲田」なのか「中田」なのか分からないのですが、記載通りで)

 そこで三人称的な歌の例として引用されているのが塚本邦雄

 

屋上の獣園より地下酒場まで黒き水道管つらぬけり

 

なんですが、これに対して

 

黒い水道管は肉眼では見えないし、屋上と地下酒場と水道管を同時に見渡す視点は、人間ではあり得ない。塚本は、視点を、そして話者を作品世界の外部に置くことで、三人称の「神の視点」を短歌で実現しました。

 

とあります。

ちょっと待って???

「一人称」と「三人称」の話題が始まった時、

 

・で、短歌で、そして日本語で「わたし」を主人公にして書く場合、一人称的なわたしと三人称的なわたしをどう関係づけるかが問題になる。

 

って言ってるじゃん??「わたし」を主人公にして書く場合の議論でしょ?だからこそ、穂村弘の<降りますランプ>の歌が、主人公がここにいるのに一体誰の視点?って議論になってるわけじゃないですか。

 私が思うに、あの穂村弘の歌が「わたし」を主人公に置いた場合の完全三人称なんですよ。歌の中に少なくとも「わたし」っぽい作中人物がいるわけですから。要は、「主人公」がいる歌における三人称じゃないですか。

 この塚本邦雄の歌はそもそも「主人公」がここにいないわけだから、ここで議論の俎上に乗せるのおかしくない??これは完全に議論のレベルが変わってますよね。この歌は、斉藤斎藤の言葉を借りれば、

 

・完全に客観的な情報で、主観的な要素が一切ない

・現実の人間にはあり得ない「神の視点」

 

なわけです。ここで議論される「わたし」っていうのは、作中主体(いないし)ではなくて作者ですよね。なんかメタな話になってないか??

 

 ここまで読んでて、もしかしたら自分自身が短歌を読むときに分からなくなっているのと同様、この議論における「わたし」が、作中主体のことを言っているのか、作者のことを言っているのかよく分かっていないから混乱するのか?って気づきました。

 そもそも座談会の冒頭で、宇都宮敦が

 

短歌における「わたし」というと、作中主体=作者という話がついて回り、ある時は抑圧として働き、ある時は素朴な「わたし」観として槍玉にあがったりします。だけど、そもそも作中主体と作者は違うのがふつうで、それをあえて同じに読ませることで事実性を発生させている。つまり、作中主体=作者と読ませる方が、むしろ高次の作業なんだと思いますね。ただし、それは小説とか他の表現でもある手法で、短歌特有のものではない。

 

と発言しており、私はこの「作中主体と作者は違うのがふつう」という言葉から、この議論は「わたし」=「作中主体」である(そしてそれは必ずしも作者ではない)、と考えてずっと読んでいたんです。だけど、よくよく読んでみると、別にそうは言っていないのかも、って思って…。

 この発言をすっごい圧縮すると、「短歌では作中主体と作者をあえて同じに読ませることで事実性を発生させている。ただしそれは短歌に限った手法ではない」と言っているようにも読めます。「作中主体」を通して見える「作者」こそがこの議論における「わたし」なのでしょうか。

 斉藤斎藤の言う、「自分の加害者性に言及した歌では三人称と一人称を接続させすぎると息苦しい」というのは、「加害者である三人称的「わたし」と、作者であるところの「わたし」を直結させると息苦しい(詩的飛躍に欠ける)」という意味合いにもとれるし、宇都宮敦の言う、「自分には見えないことを書くことを嘘として退けない方がいい」って言うのは、「作者にとって見えるはずのないこと(眠った自分など)を書いても嘘として退けない方がいい」というふうに読めるし、塚本邦雄の歌なんかは、「神の視点」、つまり作者すらも超越した状態ということですよね。

 

 この後、「あとがき」の話が出てきて、そこで「あとがき(作品の外)で自分の三人称的状況を語ることについて」を斉藤斎藤が話すんだけど、

 

でも、(笹井宏之の)病名を(歌集の)「あとがき」で出すくらいなら、本文でやりませんかと私は思う。一人称的わたしと三人称的わたしとのせめぎ合いが、作品の内部で起こるのが文学なのでは、と思ってしまう。

 

そう言ってるんです。これは、作者が作品以外で自分の状況、というか、作品の説明をしない方がいい、ってことですよね。「一人称的わたしと三人称的わたしとのせめぎ合いが、作品の内部で起こる」というのは、要は、もし作者自身の状況を文学にしたいのであれば、作品内の登場人物に全てを語らせろ、ということだと思います。この斉藤斎藤の発言の例でいうと、笹井宏之の一人称的心情が詩になっており、一方で三人称的状況は作品内では語られていないにも関わらず、あとがきに記されていると。

 「あとがき」でメッセージを発信してしまう問題については後でまた考えますが、それは置いておいて、「作者の」三人称的状況は作者のものであって作中主体のものではない、という考え方もあります。その場合作中主体は作者と一人称的心情は共有しても、三人称的状況は共有しないわけです。じゃあ、一人称的心情は三人称的状況なしでも生まれるのか、というと、それは、人間の環境がどこまで人間の心情を規定するか、というもっと観念的な議論になりそうですが、その葛藤が作品の内部で生じるのが文学であるということ?例えば寺山修司なんかは、自分の三人称的状況(母が生存していること、ネフローゼ症候群で死にかけたこと)なんかは歌にはしてこなかったわけですが、その場合、作品内で語られる一人称的心情は誰のものなんだろうか。寺山修司が歌に詠みこんだ一人称的心情が、実際の作者の(描かれていない)三人称的状況と全くの無関係であるとは思えませんが、この場合、寺山修司の歌を「(母が死に、病気については触れられていない)作中主体の気持ち」として読むべきなのか、「(母は生存しており、死にかけていながらそのことは詠んでいない)作者の気持ち」として読むべきなのか?

 

 作者と作中主体はイコールなんだろうか。そして作者はどこまで自分の三人称的状況を説明すべきなんだろうか。どこまで事実であるべきなんだろうか。読み手としては、どこまで「作中にないもの」を加味した読みが求められているんだろうか。

 

 斉藤斎藤の、作品を読むにあたって必要な三人称的状況は全て作品内に提示されるべき(そこまでは言ってないか)といった感じの主張は一読者としてはありがたくもあります。つまり、作品を読めば、作者の状況を全く知らなくてもある程度「読める」わけですから。斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』はそのような試みに見えました。

 とはいえ、現実的には、本文における「一人称的わたしと三人称的わたしとのせめぎ合い」の他に、(分かる範囲で)「三人称的な作者の状況」を踏まえた「読み」(現実の作者の状況を踏まえての「読み」)が要求されることも事実なわけで…。だからこそ、現実的に短歌を読むときには「わたし」=「作中人物」≒「作者」という読み方をしないと意味が分からない場合があるのでなんか難しい。。

 

逆立ちしておまへが俺を眺めてたたつた一度きりのあの夏のこと (河野裕子

 

の読みは作品内部では終わり得ないじゃないですか。(河野裕子)まで読んで成立するじゃないですか(笑)。もし仮にこの歌が、歌集とかではなくて全くの一首で提出されたものだったとしても、作者が女性である、という作品外の情報なしで「読み」は成立するだろうか。

 

 結局のところ、

・作者の状況と作者の気持ち

・一首の主人公の状況と主人公の気持ち

という歌の成り立ちにおける「わたし」問題と、

・読者が作者をどれだけ知っているか

・読者の感じ方や経験の違い

という歌の読みにおける「わたし」問題が生じていて、それがごっちゃになっていてもう訳が分かりません!

 

 さらに、これがごっちゃになって訳が分からなくなるのは、「三人称」的な「わたし」が挿入されてこない場面。斉藤斎藤

 

・逆に一人称視点に特化したのがゼロ年代前半の完全口語短歌、永井祐や仲田有里

 

と言っていて、例として

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう (永井祐)

 

を挙げているのですが、こういう一人称に特化した歌の場合は、これが「作者」の気持ちなのか「作中主体」の気持ちなのか、読者が作者をどれだけ知っているか、というのは一見どうでもいいような気がします。しかし、穂村弘が、「口語短歌批判の背景には欲望肯定の匂いに対する批判があった」と言っていた通り、永井祐が批判された背景には、この「どうでもよさそう感」が「現代の若者」と一致したからですよね。単に「歌を一人称に振りすぎ」という文体上の問題だけではなくて、ある意味作者に対する非難でもあったということは、この一首の向こうに、作者の人格とか、置かれた状況とか、時代や世代の感覚までもを読んでいるわけですよね。

 

 引用の引用になってしまい申し訳ないのですが、東郷雄二の『橄欖追放』で、川野芽生が「現代短歌」で連載している「幻象録」に触れています。以下は引用ですが、

petalismos.net

この睦月(睦月都)の発言を受けて、川野は第三回笹井宏之賞を受賞した乾遥香の「夢のあとさき」から歌を引いてさらに考察を進める。

 

飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました

レジ台の何かあったら押すボタン押せば誰かがすぐ来てくれる

 

 なぜこのように修辞の増幅を抑えて、リフレインを多用するかというと、省略を利かせて省かれた部分を読者に補完してもらうのではなく、読みのぶれを最低限に抑えようとしていて、歌の背後には書かれていないことなど何もないと意思表示しているのではないかと川野は考えている。なぜそこまで解釈をコントロールしたいかというと、それは「読者を信用していない」からであり、「解釈共同体を信用していない」からだとする。短歌で多くのことを表現しようとすると、共有された読みのコードに頼って意味を補完することになる。それは便利な手段ではあるけれど、マイノリティの排除にもつながると川野は続けている。現代の若手歌人の歌が、あたりまえと見えることをわざわざ反復してまで表現するのは、説明抜きで共有されることを拒むからだというのが川野の考えである。

 

 つまり、短歌作品において歌の背景を消去し、読みの解釈のブレを極限まで抑えたとしても、その歌そのものではなく、作者の心情(歌の背景)を読まれるわけです。

 一体どんな「読み」が正しいと言えるのでしょうか。

 

 次週に続きます。

yuifall.hatenablog.com

現代歌人ファイル その14-渡辺松男 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

渡辺松男 

bokutachi.hatenadiary.jp

わたしっていないんだよね鳥の飛ぶ大きな空地があるだけだよ ね

 

 『短歌タイムカプセル』『現代短歌最前線』にも取り上げられている歌人なのですが、毎回作風が違いすぎ、そして自薦のアンソロジーにあまり同じ歌を引用されない方なのか、毎回載っている歌が違っていて、どれが代表作なのかも、どんな人なのかも全く分かりません。客観的な情報としては1955年生まれの男性らしいのですが…。

 それにしてもこの口調、ときめくなー(笑)。すごいジェンダーレスな感じ。男性なのか女性なのか、歌を読んだだけでは全く分かりません。もう一首紹介されている「わたし」の歌は「落ちるわよ」って言ってるからいわゆる「女性口調」でいいと思うのですが、小説だと「〇〇だわ」「〇〇わよね」みたいな女性とか「〇〇なんじゃ」みたいな老人とか頻発するけど実際そんなしゃべり方の人、ほとんど見ることはないですよね…。なんでその口調を「女性」とか「老人」とか思うのであろうか。

 

 本題から外れるのですがよく「言文一致」って言うけど、口語と文語のレベルだったらそれはアリかと思うのですが、しゃべり口調をそのまま書き言葉にしてしまうと、逆にしゃべり口調とのニュアンスが変わってしまうような気もします。ごく普通の女の子が「そんなんじゃねーよ」とか「マジありえねー」とか言ったりすると思うし、話してると全然引っかからないけど、こうやって書き起こしちゃうとちょっとぎょっとするというか、すごいお育ちのよろしくない乱暴な子な感じしちゃいますよね。文字に起こす際には「そんなんじゃないよ」とか「ほんとありえない」とかの方がニュアンス的には同一な感じがします。しかし「そんなことじゃないわ」までにしちゃうとまた違ってくるなー。

 

 本題に戻ります。。『現代短歌最前線』で木の歌をいくつか紹介したのですが、やっぱり木の歌が取り上げられていて、解説にも

 

 「人間なんてちっぽけなもの」という思想の裏側には自然への畏敬がある。渡辺は「木の歌人」といえるほど木をよく詠み、その多くは擬人化されている。

 

とあります。木への並々ならぬこだわりが感じさせられます。確かに木って、なんか厳かな存在であって、何百年も動かずにしかも生きてそこにあるっていう、唯一無二な感じしますよね。

 

ちょっと恋をおもっただけでもあっ痛い 点は二線のぶつかるところ

 

 そしてこの人の相聞歌、めちゃくちゃかわいい。解説もかわいい。

 

 読んでわかるとおり、いずれも愛らしい歌である。とても中年のおじさんが作ったものとは思えない。

 

と書いてあって、すごいときめいた(笑)。中年のおじさんのかわいい短歌!萌えじゃん!あー、やっぱり私は「少年」よりも大人の男性が好きですね。色々経験して大人になった男の人が、それでもかわいい恋の歌を詠むのに萌えます。

 「あっ痛い」って『アイタイ』なのかなぁ(スガシカオ)。森博嗣の『夢・出会い・魔性』(ゆめであいましょう)、『封印再度』(Who Inside)思いだしたわ。そういえばCOLTEMONIKHAの『そらとぶひかり』って歌もそんな感じだったなー。

 

 

交わらぬコントレイルのよう きみは黙ったままでhe wants all to not really take (yuifall)

 

 

短歌タイムカプセル-渡辺松男 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-渡辺松男 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-渡辺松男 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-渡辺松男 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-渡辺松男 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-115 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代歌人ファイル その13-高島裕 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

高島裕 

bokutachi.hatenadiary.jp

銃声の繁くなりゆくパルコ前間諜ひとり撃たれて死にき

 

 PARCOって、なんですかね。仙波龍英の歌にも

 

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで

 

ってありますけど、なんか、歌心をかきたてる存在なのかな。しかも、破壊系の。渋谷PARCOリア充死ねみたいなさ(笑)。私は正直東京の(しかも60年代生まれの方にとっての東京の)文化にそれほど詳しくないし、PARCOにそれほどの思い入れもないので、戸惑うばかりです。

 この歌は、解説によれば

 

 「首都赤変」は軍事テロの起こった架空の東京を舞台にした連作であり、短歌にSF的発想を持ち込んだ意欲作である。単なる幻想ではなく、混沌の中で現実と幻想が一瞬交差する瞬間を捉えた歌に才能がきらめく。

 

だそうです。都市を舞台にした戦争的とかSF的な作品って仙波龍英や吉岡太朗にもあったような気がしますが、やっぱりその都市に根差してないと見えないものであるようにも感じます。。

 うーん、違うのかな。東京を破壊したい、世界の秩序を壊したい、という激しい衝動や願望がないから共感が難しいのかも。ジープも兵も間諜も弾丸も私にとってはリアルじゃないもんな。時代や戦争みたいなものにひりひりと向き合ったことがないからなのかもしれません。

 

閉ざしゆく空くれなゐに塗り籠めて少年の瞳(め)は永遠(とは)の真夏日

 

 この歌は『新世紀エヴァンゲリオン』に題をとった一連の歌の中の一首みたいです。言われてみれば、残酷な天使のテーゼっぽいな。今調べたらアニメは1995年らしいので、1967年生まれだと、20代後半ですね。アラサー世代であの作品に初めて出会うとどういう印象を受けるのだろうか…。今だとああいう不条理系アニメってよくありそうですよね。あんまりアニメとか詳しくないのですが、エヴァもいろんな先駆作品のパロディ的な側面はあるって話だし、当時もそういう印象だったのかなぁ。

 

 解説には、「終末への待望」「サブカルチャーとの親和性」の他、「少女と相聞」への信仰にも近いような憧れが指摘されています。

 

少女といふ神を拝(をろが)むわが内の「十七歳」を揉み消せぬまま

 

これなんてまさに「信仰」って感じですが。解説を読むと、

 

 自らの中の少年性を殺すことができないまま成長したがゆえに、世界と社会を憎み、少女と愛を信じる。高島の見る幻視は、破壊にせよ美しいエロスにせよ刹那的なものである。しかしそのような刹那的な美意識を共有する人が少なくないのであろうことは、短歌の世界を飛び出てサブカルチャーに目を向ければなんとなく実感できるものである。僕が短歌を知りはじめた頃もっとも熱狂した歌人のひとりに高島がいたことも、おそらくは僕の中にもやはり永遠の少年性が眠っていることの証左であったのだろう。

 

とあり、面白かったです。こういう文章に出会えるから短歌の解説とか解釈を読むの好きなんだよなー。私自身には「少年性」はないし、「少女」への憧れは皆無ですもん。むしろ、『短歌タイムカプセル』の飯田有子の感想にも書いたけど、少女時代(って書くとK-POPアイドルみたいだけど違います…)の思い出ってああー、面倒だったなー、みたいな…。未だに美化されない痛みというか…。青春期(ミドルティーン以降)の思い出ってある程度美化されているのですが、ローティーン以下の「少女時代」って、美化されないです。ところが、そういう、なんというか世の中に汚される前の少女性、あるいは内に未知なる官能や残酷さを秘めた少女性っていうものを、(おそらく儚く、また遠いものであるからこそ、)きわめて美しいものとして見る人もいるんだな、と。

 じゃあ私には「少年」に対する憧れはあるのかというと、大人になった男性が詠む「少年」の歌、例えば永田和宏

 

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまで俺の少年

 

なんてめちゃくちゃ好きですけど、それは「少年性」に対する憧れや美化とは違うなーと。なんていうか、開けてみたら宝石が入ってるんじゃないか、みたいなドキドキ感には乏しいというか…。どうせ石炭やろ、みたいな…。

 こういうと非常に性差別的発言になるのかもしれませんが、「少女」の持っていたものを失いながら大人になる女性に対し、「少年」の持たないものを獲得しながら大人になるのが男性なのかもなー、とか思いました。だから、心の奥底の変わらないものとして「永遠の少年性」はありうるけど、「永遠の少女性」はともすればグロテスクに感じるのかもしれない。まあ、こういう過度の一般化(しかも無根拠)ってよろしくないですね…。

 

 それにしても「十七歳」が少女かと言われると微妙だな…。いや、大人の目からすると慈しみ愛すべき子供なんですけど、自分自身が十七歳だったときのことを考えると…。「少女」に対する相聞歌を作るのは私には非常に困難ですね…。

 

 

水蜜桃(すいみつ)を抱くがごとく取りし手のあえかな細さ 夢で逢おうか (yuifall)

 

現代歌人ファイル その12-大田美和 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

大田美和 

bokutachi.hatenadiary.jp

木漏れ日に濡れたる君にくちづける今朝は世界ができて七日め

 

 この歌かわいいですね。世界ができて七日目って安息日だっけか?6日目に人が生まれて、7日目にくちづけるのね。『現代短歌最前線』でも紹介しましたが、わりと主体的な恋愛の歌が多いです。解説には

 

 統一して感じられるのが男性である「君」の無垢な少年性である。「びしょぬれ」「海の色のタオル」「木漏れ日に濡れたる」というイメージはいずれも若さ以前の幼さを感じさせる。「少年のように」というそのものずばりの直喩もある。

 

とあります。この「少年のような」君と向き合うとき、この人も「少女のような」わたしなんだろうか。それとも「愛してあげる」んだから、大人の女性なんだろうか?この人の歌のテーマは「フェミニズム」、「性愛」を詠んだものが多いので、やっぱり自分は大人の女性で、相手も大人の男性で、大人の男の人が「少年のように黙りこむ」からいとおしいのかなって思いました。

 

蹴られればなおさら弾む毬だから心はひとつあれば足りるわ

 

風花って知っていますか さよならも言わず別れた陸橋の上

 

 これらの歌は、歌そのものも好きなのですが、解説に胸がときめきました。

 

 「自立した女性」は必ずしも「強い女性」ではない。強がりをみせることもあるにしてもときには孤独や悲しみを表明するし、素直に愛を表現するさわやかな歌も多い。自分の足で立ち上がり必死に走り続ける姿は、読む側にも元気を与えてくれるのである。

 

と、山田航は書いています。フェミニズムを訴える「自立した女性」って、男性からはちょっと敬遠されるというか怖がられるイメージがあるのですが、これらのかわいらしい歌を「必ずしも「強い女性」ではない」とまっすぐ受け止める姿勢に、なんていうかときめきました(笑)。

 一人の人間がいつも強かったりいつも弱かったりするはずがないですよね。社会の中で自立していても、恋愛では寄りかかりたいときもある。家族や友人に心をゆだねたいときもある。こんな、いつもかっこいい人(男性でも女性でも)がふっと見せるかわいらしさや弱さが愛おしかったりするのかなって思いました。

 

 

徒花のまま散らされて牡丹雪あれほどそっとくちづけたのに (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-大田美和 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-大田美和 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-大田美和 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-大田美和 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ