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短歌の「私」 ⑨

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

過去記事です。

短歌の「私」 ① - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ③ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ④ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑤ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑥ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑦ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑧ - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 次に「あとがき」の話になります。つまり、作者あるいは作中主体の状況や気持ちを作品外で説明する、ということなんですけど。最初に斉藤斎藤が柴田葵の歌集『母の愛、僕のラブ』のあとがきについて触れていて、そこで

 

これから書く私のことは、忘れてしまってほしいと思います。(中略)たぶん、あなたの手にあるその短歌は、あなたです。

 

と書いていると言っています。「これから書く私のこと」と言っているので、自分自身の状況についてあとがきで記載しているということでしょうか。そして、「忘れてしまってほしい」「その短歌は、あなたです」ということは、作者の背景を踏まえず、一首を読者の自由に読んでほしい、ということかと思います。

 次に笹井宏之の『ひとさらい』について

 

真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ

 

 出口のない感じ。読んでるこちらも息苦しくなるような、閉塞感が伝わってきます。で、どうして苦しいのか、作中主体の状況は一首にあえて書かれていない。でも「あとがき」には作者の苦しみの背景が、つまり病名が、あっさり書いてあるんです。(中略)一人称的なわたしと三人称的わたしとのせめぎ合いが、作品の内部で起こるのが文学なのでは、と思ってしまう。

 

と書いています。

 これらのことから、斉藤斎藤の主張としては、作者の背景を踏まえて作品が読まれたければ作中に書くべきで、作者の背景を踏まえずに読まれたければ作品外でも書くべきではない、ということかと思います。

 

 言っていることはめちゃくちゃよく分かるのですが、しかしこれはすごく難しいですよね。だって、「あとがき」とかその他の媒体でもし触れなかったとしても作者の背景というものは拡散しうるじゃないですか。作品外の現実世界、メタレベルで。

 私自身の個人的な心情からすると、自分自身の個人的状況を明かしたくはないし、歌も概ね自分の状況を反映して作っていないし、自分のこととして読まれたいとも思っていません。だから「あなたが勝手に解釈して」に近いスタンスだと思う。しかしそのスタンスがなぜ成り立つかというと、私が全く結社にも所属せず、歌人とも交流せず、リアルで活動せず、賞にも応募せず、ネットの片隅にいるにすぎないからです。もしリアルに誰かと交流していたら、個人情報の流出を完全に避けることは難しいでしょう。笹井宏之にしても、作品内に自分の苦しみの根源を直接記載したくなくても、病気を隠し通して活動することは避けられないと思ったから作品外で触れざるを得なかったのかもしれない。柴田葵にしても、現実世界で自分の背景が知られていたからこそ、作品外でそこに触れ、さらに「私の背景を踏まえて読まないでほしい」と書かざるを得なかったのかもしれない。

 

 同じ『短歌における「わたし」とは何か?』という特集内で、柴田葵が「正直になりたい」という寄稿文を書いています。冒頭にこうあります。

 

「子供を産んだ人はいいよね、子供を産んだことを短歌にして新人賞に出せるんだから」というニュアンスのことを、何年前だろう、もうずっと前に、言われたことがある。

 私には確かに子供がいるけれど、子供の(あるいは子供との)様子をそのまま短歌にすることは(歌集収録歌以降は)ない。私は長く短歌を続けたいし、多くの人に読まれたい。私はさまざまな人と深く関わって生活しているが、彼らは私の大切な人である以前に、個人である。子供も含め、私は彼らそのものを作品化できない。

 

 つまり、おそらくこの人が子持ちであることそのものは、本人が書こうが書くまいがすでにある程度の人は知っていて(私は知りませんでしたが…)、だからこそ、「それを踏まえて読まれたくない」と書かざるを得なかったのかもしれないと思ったんです。

 花山周子が引用しているこの人の

 

バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜あなたを殴れば店員がくる (柴田葵)

 

この歌も、すっごく若い人が学生短歌会で詠んだ歌と思って読むのと、子持ちの女性が書いたと思って読むのとでは読まれ方が違うような気もするし、そういうのを排したかったかもと。

 

 実際、歌の状況を知るか知らないかで全然読み方変わっちゃうっていうのはありがちなことで、私はこの歌をこの座談会で知ったのですが、この一首だけ引用されて提示された時は全然意味が分からなくてかなり戸惑ったのですが、「笹井宏之賞」に提出された連作の中の一首で、しかも母親とうまくいっていないシングルマザーの家庭に育った僕っ娘が親元を飛び出しDV彼氏と暮らしている生活の中の一首(らしい)ということを知った後では全然見方が変わったし…(作者の事実かどうかはともかくそういう体の連作と受け止めたのですが、違っていたらすみません)。

 

 結局、またあの河野裕子の歌に戻るのですが、

 

逆立ちしておまへが俺を眺めてたたつた一度きりのあの夏のこと (河野裕子

 

は背景を無視して読むことはできるのか?こういう、すっごい有名な歌人の歌の場合って、たとえ「あなたの手にあるその短歌は、あなたです」って言われても、無理じゃない?そう読むの無理じゃない(笑)?

 で、今「すっごい有名な歌人の場合」って書きましたが、その境界ってどこにあるの?結局、作者のことを少しでも知ってしまったら、もはや「あなたです」的な読み方はできなくなるし、しかもそういう作者の背景を完全に無視した読み方は「正解」ではないのではないか、って気がしちゃうんですよねー(これは自分が作者の背景をあまり知らないから間違った読み方をしているんじゃないか、というコンプレックスから来る考えなんですけど)。

 笹井宏之が難病に侵されていて、若くして亡くなったことを無視してその歌を解釈できるか?河野裕子が女性で、永田和宏の妻で、乳癌で亡くなったことを無視して歌が読めるか?春日井健がセクシャリティの面で葛藤を抱えていたことを無視して彼の歌を解釈できるか?

 

 昔短歌を好きだった時代があったのですが、当時は若手歌人の歌ばっかり読んでて、塚本邦雄、葛原妙子、春日井健みたいな大御所の歌をほとんど知らなかったんです。。だから、今回のブームで色々なアンソロジーや解説サイトを読んでほとんど初めて春日井健のことを知ったという体たらくなのですが、それでちょっと戸惑ったのは、彼の歌が語られる時に、だいたいの話者がそのセクシャリティに触れていることでした。

『新・百人一首』というアンソロジー本のあとがきの対談で、

 

岡井隆;『未青年』の頃は、彼がホモセクシュアルだと誰も知らなかったね。

永田和宏;よく読めばわかるんですが、そういう文脈で読まなくても充分に成り立つ歌ばかりです。

 

と語られていましたが、つまり、誰も知らなかった、ということは、春日井健は作品内でそれには触れていなかったし、少なくともその当時は作品外でも語ってはいなかったはずです。でもある時点でそれは知られるようになって、それを作品内で語っているのかそうでないのかは私には分かりませんが、そうなると、それに触れていなかった頃の作品についてもそういう目での「読み」、批評が入ることになります。彼の全ての作品に対して、そういう目線を排した読み方が失われてしまう可能性もある。

 

 もともと全然歌人の個人的な背景のこと知らなかったし、知らなくても読もうというスタンスで『短歌タイムカプセル』読み始めて、そもそも歌集も全然読まなくてアンソロジーしか読んでなくて、それでも宇都宮敦の言う「つどつど読み」、一首をそのまままっさらに鑑賞する、というスタンスでもいいんじゃないか、と思って感想書き始めたんですよね。だけど、その目で次に『桜前線開架宣言』読んだら、作者の背景や作品の解説が少し語られただけで、見え方が全然違うことにすごくびっくりした。

 もしかしたら、どっちが正しいとか、間違いとか、そこまでは言えないのかもしれない。世に出てしまった作品は作者を離れていくんだろうし、究極的には作中主体は作者そのものではないのかもしれない。しかも、作者の背景を知ったからって、作者のことが分かるわけじゃない。斉藤斎藤は「三人称と一人称のせめぎ合いが作品の中で起こるのが文学だ」と言っていて、それは、作品の中に記載されていない三人称的状況(作者の背景)については読み取らなくてもいいということなのかもしれない。だけど、作者の背景を知っている場合と知らない場合は、いいとか悪いとかではなくて、読み方は変わってしまうと思います。

 

 結局、私がなぜこれほどまでに「短歌における「わたし」とは何か?」というテーマにこだわるのかというと、それは、作者の背景を知らず、歌集を読まず、一首鑑賞という立場を貫いても、作品を読むことはできるのか、ということを知りたいと思っているからです。だから、作者=作中主体なのか否かというのがわりと大きい問題で、作者に「私性」が置かれてしまうと「一首鑑賞」は読み間違いの危険が高まりますよね。だけど、歌人の立場から発信された言葉を読むと、「事実として読まれたい」という強い動機がある人(斉藤斎藤など)がいる一方で、必ずしも自分自身の背景を想定して読まれたいと思っているわけではない人もいるのでは、という気もしていて(自分を忘れてほしい、というような「あとがき」の存在を、柴田葵以外にも複数人で確認したことがあります)。他者の「読み」によって自分が見える、と穂村弘も言っている通り、自分と背景の違う人間が自分の言葉を受け取ることで、全然違う「作中主体」がそこに出現することはあり得るのかと。だから、「あなたです」っていうのはつまり、作者の背景は考えなくてもいい、作中主体はどう解釈されようとそれはあなたの自由であって、もはや作中主体=読者くらいに重ねて読んでもらってかまわない、というメッセージですよね。

 しかしながら、どの歌にしろ、花山周子も言ってますけど、「あなたです」って言われても私じゃないですからね…。私、バーミヤンの歌、自分のものとしては全然考えられないもん。よかれあしかれ、自分の中にない言葉、中にない発想、そういうものが読みたくて読んでいるわけで、「自分」だったら全く読む必要ないですから(笑)。

 

 来週に続きます。