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短歌の「私」 ①

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

 今「現代歌人ファイル」の感想アップしてますが、206回にも及ぶ長丁場なので、土日はちょっと休憩して、今まで通り洋楽の和訳とか、その他雑記をアップしていこうかなーと考えてました。短歌以外の本の感想とかも時々書いたりしてたのでそのうちそういうのも載せていくつもりですが、とりあえず短歌関連の雑記です。

 

 今回、短歌の「私」というテーマに関して、

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

の中の、

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで考えたこととかを色々書いてみます。すっごい長くなったので分割でアップしますが、多分全部で12~13回程度になりそうなので、およそ3か月間かかりそうです。。しかも第一回はあんまり座談会の内容と関係なくなってしまった(笑)。まあ、introductionということで…。

 

 ずっとアンソロジーで短歌を読んできて、歌を作った時の作者の背景とか歌の前後の状況、それどころか、歌集におけるこの一首の位置づけすら分からない状態で歌を読んできたので、短歌における「わたし」って誰のことなのか、ということにはすごく興味がありました。一首の中から読み取れる人物像としての「わたし」として読んでもよいのか、いや、この歌は歌を作っている作者自身の状況や心情を表しているのだから、作者のことを知らなくては「わたし」は読めない、ということなのか。

 個人的な気持ちからすると、私は、何か作品を好きになっても、いわゆる「中の人」を好きになることはほとんどないです。「恋って知らない人を好きになるんですよね」とか散々書いてきましたけど(笑)、現実的に全く会ったことのない人を好きになれるかというと…。GleeのKlaineめちゃはまってたけど、カートとブレインは好きでもクリス・コルファーダレン・クリスがどんな人かっていうのにはそれほど興味がなくて、むしろ一般論としては、「役」が好きであればあるほど、現実の人格を知ることはマイナスになる場合もあるし(もちろん、この2人の人格がどうとか言いたいわけじゃないです(知らないし)。でもやっぱりgleeの場合も、役者さんたちの人格や人間関係について色々言われてたと思う)。

 短歌でも、笹井宏之とか吉川宏志とか好き♡って言ってるけど要は彼らの歌が好きなだけであって彼らの人格とか全然知らないし、作者としてのリスペクトはあれど、人物に対して好き嫌いの情は持ってない。それはKlaineと同じで「役」が好きっていうのと変わらないと私は思ってて、「役」(この場合は「作中主体」というよりも「作風」)以上の事実なんて知らないし、「役」を好きでいるために、あるいは作品の解釈をするために、「中の人」のことを知る必要があるのか?という気持ちとか、結局、会ったこともないのに知りようがない、という気持ちもある。しかし、短歌の場合はドラマと違って「役」は徹底的に作者本人の脚本なわけで、現実の作者を無視して作品を解釈できるのか、という葛藤もずっとありました。

 散文と違って短歌で難しいなって思うのは、

・作者=作中人物なのか?(作者を知らないで「読み」は成立するのか?)

・歌集の中の一首だけ抜き出されても読めるのか?

というあたりかなって思います。

 

 座談会の冒頭で宇都宮敦が

 

私は、短歌における「わたし」といった場合、短歌に「わたし」はいるだろうけど、短歌「特有」の「わたし」はいないと思っています。

 

とあっけなく言っていて、あ、そうなんだ、と思いました(笑)。さらに、

 

 短歌における「わたし」というと、作中主体=作者という話がついて回り、ある時は抑圧として働き、ある時は素朴な「わたし」観として槍玉にあがったりします。だけど、そもそも作中主体と作者は違うのがふつうで、それをあえて同じに読ませることで事実性を発生させている。つまり、作中主体=作者と読ませる方が、むしろ高次の作業なんだと思いますね。ただし、それは小説とか他の表現でもある手法で、短歌特有のものではない。

 

と続けています。

 この「わたし」問題は、近代の「アララギ」あたりに端を発しているのかな。つまり、「写実」「事実を詠む」というところなんですけど。その後寺山修司が「死んだ母」をやたらと詠って、いや、お前の母親死んでないじゃん、ってなったり、平井弘が「死んだ兄」を詠って、お前兄いないじゃん、って批判されてた頃は、まだ「虚構のわたし」というものが受け入れられていない、短歌=事実の時代だったのかなーと。でもそれって小説で言うと、「小説」というジャンルの中に「私小説」しか存在しないみたいな感じでかなりの違和感なんですけど、むしろ「小説」で例えるからおかしいのかもしれません。「随筆」と考えた方がいいのかも。「短歌」=「随筆」だったから、事実ではないことを詠みこむと、「それもう随筆じゃないじゃん。小説じゃん」みたいな批判だったのかも。

 しかし、散文であれば「事実でない」―「随筆ではない」―「小説である」と別ジャンルに入れるけど、短歌の場合、「事実ではない」―「随筆ではない」―「短歌ではない」ということになってしまっていたの?

 

 前衛以降に定義された「私性」はもっぱら『現代短歌入門』で岡井隆

 

短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。

 

と書いた内容に規定されるようなのですが、この定義で言えば「一人の人の顔」が見えさえすれば、それは作者本人であってもそうでなくてもいいということであり、表面的には、母親が死んでいない寺山修司が「死んだ母」を詠っていても、寺山修司の歌の登場人物のお母さんは亡くなっているんだな、という理解でいいということになります。

 しかし現実問題として、歌そのものが解釈されることってあんまりなくて、なぜ作者は死んでもいない母を作品内で死んだことにするのか?という点に焦点を当てて論じられることが多いような気がする。純粋に作中人物を「わたし」として解釈している「読み」は果たして存在するのだろうか。

 例えば、「母逝く」という連作短歌

 

母もつひに土となりたり丘の墓去りがたくして木の実を拾ふ

埋め終へて人立ち去りし丘の墓にはかに雨のあらく降りくる

音たてて墓穴深く母のかんおろされしとき母目覚めずや

 

について、「母を失っていない寺山修司が詠う母の死についての歌」とする「読み」は多々あれど、「母を失った人の歌」として読む「読み」はありますかね?もしあったとして、それは間違いなの?

 

 確かにこのあたり(前衛?)を分岐点として、「現代短歌」は「随筆」から「小説」化したというか、私小説あり、一人称あり、三人称あり、SFあり、恋愛あり、社会小説あり、歴史小説あり、不条理あり、とジャンルごとに細分化されてきたような感じもします。しかしながら、31文字という短文に作中人物の背景が十分詠みこめないこともあってか、「作者」の背景を透かして読む「読み」が正しいという感じが拭えません。

 

 これは本当に自己矛盾だと思っていつも葛藤するのですが、やっぱりどこかで、短歌っていうのはまあだいたい作者のこと詠ってるんだろう、って自然に思ってる自分もいるんだよな。私自身が自分自身の状況をあんまり歌にはしてなくて、作者と切り離して歌を解釈してもいいんじゃないかって思っていて、作者の背景も歌集における一首の位置づけも分からないアンソロジーで歌と出会うことを好んでいるにも関わらず、歌を読みながら「作者はこういう状況だったのだろう」とか「作者はこういうことを思っていたのだろう」とか考えちゃうんです。

 これ、小説に置き換えると、かなりメタな読み方ですよね(笑)。推理小説読んでて、作者がこんな人殺しの小説ばっかり書くのはなぜだろうか?とかあんまり思わないじゃん(ただしあまりにも陰惨な内容の場合は、それを書いた作者自身の動機が語られたりもしますが)。歌詞付きの音楽だって、それほどアーティスト本人の状況とガチで重ね合わせたりはしないと思います。まあ、元カレの実名ソングみたいなのもあるけどさー(笑)。それでも一般的には、そこまで個人的体験と一対一対応だと思って聴かないよね、普通。ある程度は一般化されて、異化された形で出力されていると思う。

 短歌は逆に、明らかに嘘のやつ(性別が違うとか、人間じゃないとか、現実には起こりえない出来事とか)以外はなんとなく事実だろうと思って読んでしまう感じがする。そして、事実とずらしたような記載について、例えば

 

逆立ちしておまへが俺を眺めてたたつた一度きりのあの夏のこと (河野裕子

 

なんかは、この歌をこの歌そのものとして、「おまへ」と「俺」のストーリーとして読む読み方ってあんまり見たことがなくて、河野裕子という女性歌人が、普段使っていないであろう「おまへ」と「俺」という人称を使って何を言おうとしているのか、と読まれるのがスタンダードな感じがするんですよね。鑑賞するにあたって、その考え方がもちろん正しいと思うのですが、作者をブラインドにして歌を読んでみるのも面白いのかなっていう気もします。男女すら分からない状態で。

 まあー、でもこの歌については最初に「逆立ち」があるから、何らかの倒錯というかそういうものはあるんだろうなという感じもしますけど…。だけどもし作者がブラインドだったら、「逆立ち」の一言だけで作者が女性であることを読み取れるかなぁ。私なら無理だな。本当は「俺」が「おまへ」を眺めているんだ、みたいな主体と客体の入れ替えくらいは想像できるかもしれませんが…。

 そういう読み方は、やっぱり、「正しくない」っていうか、この歌を読み切れていない感は否めませんよね。ちょっとググってみても、河野裕子作であること、河野裕子の夫が永田和宏であることを前提に読まれている解釈が多く(というかほぼそれ)、その2人を重ね合わせなければ本当の読みにはならないんだなーって思う反面、なんか納得いかないものも感じる(笑)。

 短歌の「読み」には常にメタ解釈が求められるの?

 

次週につづきます。