「一首鑑賞」の注意書きです。
239.水田に横転してゐる特急の写真を見ては和らぐこころ
(花山多佳子)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで大松達知が紹介していました。
これはどういう意味なのかなぁ。受け止めきれなくて悩みました。鑑賞文では「水田」と「特急」の対比を読んでおり、
それが人災によるものか天災によるものか、脱線・横転した。それに対して、悠然としているのが、水田である。
日本を含めたアジアの人々を長く生かしてきた存在。
近代文明の敗北と古代文明の勝利というわかりやすい構図。
こういうことを日常会話で言ったら変人扱いされるはずだ。短歌でなければ、こんなふうに言いきることはできないだろう。
と、一種の「短歌の役割」を述べています。
私はこれを読んで、逆に、かつて井上法子が紹介していた
津波のやうに流行り病のやうにといふ比喩ひえびえと近寄りがたく (寺井龍哉)
を思い出しました。一種の社会詠であり、「言葉狩り」の歌とも読めます。
なんか、すごい乱暴なこと言っちゃうと、短歌独自の役割なんてあるのかなぁと疑問を抱きます。確かにポリコレを主張することもできるし、不謹慎を笑いにすることだってできるけど、でもそれは短歌に限ったことじゃないよね。お笑いだってそうだし、詩や小説、歌、過激な反社会活動だってそうだし。鑑賞文では、「常識的な自分」、つまり表面的なことを言うだけでは意味がない、<本当の自分>があるだろう、という風に書いています。
ドイツ語には "schadenfreude" という単語があり、「他人の不幸は蜜の味」という意味であるというのは有名です。それが「横転した特急を見て和らぐこころ」かどうかはともかくとして、誰でもそういう「秘めた自分」みたいなのはあると思うしそれをさらけ出す芸術があってもいいとは思う。でも「短歌でなければ言い切ることはできない」とは思わないんだよなー。歌とか、あるでしょ。不謹慎なやつ、いくらでも。
ただ、こういう歌に心惹かれる気持ちもあって、それは共感と言うよりも「どう感じたらいいのだろう」ということを知りたい、という願いの方が強いです。そんなん正解なんてないんですけどね。
可愛そう?もっと頂戴蜜の味さそり座生まれの女ですもの (yuifall)