2026年10月7-13日
・スタンダール(野崎歓訳)『赤と黒』上下
・沼田英治『人間と昆虫のこれからを考える』
以下コメント・ネタバレあり
続きを読む「一首鑑賞」の注意書きです。
431.両の手を垂れて液体のごとき吾か夜半に明るき小園にをり
(秋葉四郎)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで前田康子が紹介していました。
「液体のごとき吾か」に心惹かれる歌です。指から何かぼとぼと滴ってきそうです。それが何か黒いもののように感じるのは、「夜半」という言葉からのイメージだろうか。しかし「明るい」とも言っているのだからもっと楽しい印象でもよさそうなものですが、やっぱりあまり楽しそうではないし、キラキラした液体のようにも思えません。「吾か」という客観的な言い方に、どこか現実を直視したくない空気を感じるからかもしれない。鑑賞文にも
作者は疲れているのだろうか。全身のどこにも力が入らず液体のようにだらりと手を垂れて夜の園にいる。「吾か」と自分を突き放し外側から見ているような表現である。夜、照らし出されている庭は昼間みるのとは違う特別な景色だっただろう。しかし作者はどこか無表情のように感じる。
このようにあり、「カオナシ」みたいなものが思い浮かびました。明るい場所にいて、でも誰でもない自分。
他にも子育ての歌などが引用されているのですが、
わが娘(むすめ)まで流行の臍を出す装ひすればあはれとまどふ
とあって確かになぁ、と思ってしまった。ああいう恰好、世間で流行してて「へえー」って思うのと自分の子供がやってるのじゃ全然違うよね。
そういえば「猫は液体」ってイグノーベル賞ありましたよね。
平日の昼間の街を知らなくてよそ者のまま地下鉄に乗る (yuifall)
2026年9月30日-10月6日
・本郷和人『日本史を疑え』
・辻村美月『鍵のない夢を見る』
・ダニエル・カーネマン(村井章子訳)『ファスト&スロー』上下
・ALT236(佐野ゆか訳)『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』
以下コメント・ネタバレあり
続きを読む2026年9月23-29日
・ジョセフ・ヒース(栗原百代訳)『資本主義が嫌いな人のための経済学』
・コリン・ディッキー(熊井ひろ美訳)『ゴーストランド 幽霊のいるアメリカ史』
・横溝正史『三つ首塔』
・横溝正史『獄門島』
・小平麻衣子『なぞること、切り裂くこと 虚構のジェンダー』
・横溝正史『悪魔の手毬唄』
・本郷和人『「違和感」の日本史』
以下コメント・ネタバレあり
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430.おしまい。と夕ぐれが云う窓が云うアイロン台の脚を折るとき
(中畑智江)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで前田康子が紹介していました。
家事ってとりとめがなくて、どこから始まってどうしたら終わるのか分かりにくい面があります。アイロンだってやろうと思えば無限にできるのかもしれませんが、今日はこれにアイロンをかけると決めて、それが終わって、外が夕ぐれになっていて、「おしまい。」と。そんな風に言ってもらったように感じながらアイロン台を片付けている。でも家事自体が終わったわけじゃなくて、また次が始まるんだよなぁとも思います。夕ぐれだったら今度は夕ご飯かな。今度は何かに「はじめ」って言われちゃうんだろうか。そしてどうすれば夕ご飯が「おしまい」になるんだろう。何だか呆然としてしまいます。
おさな子は遠く駈けゆくわれのみが長き産後を生きているなり
みたいな歌もあって、これもまた呆然としてしまうような感じがする。同じこと、同じことを繰り返しているうちに自分だけが取り残されていくような。
最後に
ま春とは言わない春のたけなわのお昼寝 練乳色の雲ゆく
が引用され、
「真夏」「真冬」とはいうが「ま春」とは言わない。なるほど。「練乳色の雲」もきいている。
とコメントされていました。
12月~1月頃、めちゃくちゃ寒い日に天気予報で「真冬並みの寒さ」と言っていて、えー、今真冬じゃないのかい、って思って調べたところ、真冬というのは大寒(1月20日頃)から立春(2月4日頃)までのごく短い期間を指す言葉だそうです。夏や冬は気温がピークに上がったり下がったりするので「真」が付くんでしょうが、春や秋はそういう分かりやすいピークがないので「ま」はつかないですね。でも春もたけなわ、春真っ盛りの日は「ま春」と言いたくなるの分かる気がします。
見ず知らずの人の嫌味が身に染みる完全無欠でいられないこと (yuifall)
2026年9月16-22日
・アンソニー・ホロヴィッツ(山田蘭訳)『メインテーマは殺人』
・M・W・クレイヴン(東野さやか訳)『ブラッディダイスの殺人』上下
・本郷和人、井沢元彦『疫病の日本史』
・後藤武士『読むだけですっきり分かる国語の基礎』
・後藤武士『令和改訂版 読むだけですっきり分かる国語読解力』
・後藤武士『受験・資格にらくらく合格する 最短!勉強法』
・かまど、みくのしん『本が読めない33歳が国語の教科書を読む~やまなし・少年の日の思い出・山月記・枕草子』
・かまど、みくのしん『本が読めない34歳がはじめてごんぎつねを読む ごんぎつね・変な絵・鼻・葉桜と魔笛』
・古谷博和『幽霊の脳科学』
以下コメント・ネタバレあり
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429.残し置くものに未練はあらざれどうすきガラスのこの醤油差し
(永井陽子)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで前田康子が紹介していました。
未練はないと詠いながら、多分美しい醤油差しに思いを馳せるのがなんだか切なかったです。これは作者の遺歌集におさめられた歌のようです。
ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ
などが引用され、
三首目の歌はとても衝撃的だ。「後片付け」それは他人が来て遺体を片付けるということだ。そして遺体の片付けられたあとには生きている時間に使っていたホッチキスの小さな針が残っているだろうとリアルな現場を詠んでいる。作者の死であれば自分の死後のことをこんな風に冷静に考えていることがさらにこの歌を哀しくさせる。この歌を読んでいるうちに、死後の永井陽子の部屋に読む者が行っている気さえ起こるのだ。「ホチキスの針」という捨てられてしまいそうな小さな物を持ってきたところにも儚さを感じる。
冒頭の歌にもどりこれらの歌とあわせて考えると、自分が死ぬことや死後のことを考えたときに永井陽子の心の中には「物」がまず浮かんでいるのだろうかと思う。両親も亡くなり一人で生きていた永井を引きとめようとするもっと他のものはなかったのだろうか。
と鑑賞文には書かれています。
自分の死後や死ぬことを考えたとき、最初に思い浮かぶのはなんだろうか。私ならまず残された人のことを考えますが、「両親も亡くなり一人で生きていた永井」とあるので、そういう状況であればやはり後に残していくものが気にかかるのはとても分かります。私だって物のことは考えるよね。特に同人誌どうしようって思うよね。「うすきガラスの醤油差し」とのあまりの落差に自分で愕然としますが、せめて死ぬ前に処分する余裕は欲しい…と心から願っております…。
たとえば・ぼくが・死んだら 何もない けど10億年後はみんなおなじか (yuifall)