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読書日記 2024年6月5-11日

2024年6月5-11日

万城目学鹿男あをによし

・アーヴィン・ウェルシュ池田真紀子訳)『トレインスポッティング

・エリス・ピーターズ(大出健訳)『死体が多すぎる』

トルーマン・カポーティ村上春樹訳)『ティファニーで朝食を

北村薫『六の宮の姫君』

カート・ヴォネガット浅倉久志訳)『タイムクエイク』

 

以下コメント・ネタバレあり

万城目学鹿男あをによし

 これはどう見ても『坊ちゃん』平成ファンタジー版なので、超早い段階で黒幕は誰なのか誰にでも分かります。山嵐が堀田イト、うらなりが重さんなのかな?まあ、恋愛はあんま関係ないですけど。主人公が女子高生を好きになったらキモいのでそうじゃなくてよかったです。マドンナが強くて負けず嫌いだし、リチャードもなんか憎めないし、イトちゃんはかわいいし、藤原はいいキャラだし面白かったです。あと剣道の試合の描写がすごくて圧倒されました。小説家ってすごいなぁ。『プリンセス・トヨトミ』も読みたくなった。

 

・アーヴィン・ウェルシュ池田真紀子訳)『トレインスポッティング

 こっちが本物(?)の『トレインスポッティング』でした。『T2』よりずっと面白かったです。というのは『T2』は野心家で女たらしの詐欺師シック・ボーイが主人公でほとんどポルノ絡みの話だったのに対し、『トレインスポッティング』はヘロイン中毒のレントンが主人公で、ヤク中の思考の流れがリアルで幻想的でとてもよかったので。シック・ボーイは成り上がろうとしているし自分をダメだと思っていなくてでもどうしようもなくダメなので、こいつはいつ転落するんだろう…ってハラハラさせる展開で、一方レントンは自分たちのダメさを十分すぎるほど分かっていて投げやりになったり抜け出したいと思ったりのバランスがよくて、どっちかというとこいつここからどうやって抜け出すんだろう…と思わせる展開でした。

 読んでて、なんというかこれが原始的な人間の生き方なのかもなって気もしました。セックスはやり捨てで、子供は死ぬもので、腕力やサイコ具合、ヤクの調達力を含めた集団の中の暴力的なパワーバランスが全てを支配し、ひとときの快楽のためには全てを犠牲にし、いざとなったら自分もまた死ぬだけという。実際25歳とか27歳とかで心筋梗塞やAIDSからのトキソプラズマ症で死んだりするキャラが大量にいて、解説でも「その先にあるのは文字通りのデッドエンド」と書かれてます。死んだ友人の葬式で「でもHIVに感染する前だって彼にまともな人生なんかなかった」みたいに言うシーンあって何とも言えない気持ちになった。「〇〇さえなければ…」のポイントなんて存在しなかったんだよなと。

「小説はヤク中や悲惨をクールに描写し、映画はそのクールさを強調している」と解説や『きっとあなたは、あの本が好き。 連想でつながる読書ガイド』には書かれていましたが、ほとんど最低の人間の吹き溜まりを書きながら、確かに描写はめちゃくちゃクールだと思った。まあ、ただ、自分自身も含めてですけど、小説や映画からこういう世界を知るようなハイソな人種が悲惨のクールさに憧れたところで能動的にそっち側に行くことはまずないんだし、サバンナの野生動物のドキュメンタリーを見ながら「すげー」って言ってるようなもんだよなと思ったりもした。すごいクールだね、でも遠い世界だな、って。

 

・エリス・ピーターズ(大出健訳)『死体が多すぎる』

 米澤穂信のおすすめ本。舞台設定が面白かったです。あと基本いい人しか登場しないので読みやすかったです。最後決闘で全てを決めるオチにはびっくりした。12世紀が舞台ですもんね…。

 

トルーマン・カポーティ村上春樹訳)『ティファニーで朝食を

 私は映画を見たことがないのでこれが初『ティファニーで朝食を』でした。映画見てなくてよかったかもしれません。というのはこの主人公のホリーは全然オードリーヘップバーンのイメージじゃないし、この小説のテーマからすると語り手の男性と恋に落ちてそこに留まるオチはないだろ、と感じたからです。映画は全然別物としてよい出来なのだそうですが。

 ホリーはなんというか、野生の人です。出自もスピリットも『トレインスポッティング』のキャラクター的なのですが、お金持ちの男性に取り入ってのし上がろうとする野心がある一方で相手を本当に好きになってしまうピュアさもあり、そのつかみどころのなさにみんな夢中になってしまう。気まぐれで不安定で残酷ででも壊れやすい感じの女の子です。こんな暮らし永遠に続かないだろうと思うところに美しさと怖さがあるんだろうなと思う。お金持ちの男性と結婚したとしても幸せになれる気がしないもん。むしろ次の短編『花盛りの家』で描かれるオティリーみたいな幸せの方がホリーには合っているようにすら思える。だからアフリカにいたのでは?しかしそう思う反面、最後ホリーが野に放った猫が飼い猫として幸せにやってるようなシーンがあることから、ホリーも誰かに飼われている方が幸せなのかもしれないと思ったりもしてよく分からん。

 

 村上春樹は解説でこれらは「イノセンスの中に生きようとする」人々が「イノセンスを失う」話だと書いています。そして、

 

『花盛りの家』の主人公オティリーのように、苦難を乗り越えてもう一度イノセントな世界を手に入れられる人間は、あくまで例外的である。それはハイチの貧しい山奥でしか実現し得ない愛の寓話である。

(中略)

ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーがどのような結末を迎えたかは、作品の中では明らかにされていないが、たとえどのような状況に置かれたにせよ、彼女が「いやったらしいアカ」や幽閉への恐怖から完全に逃れることができるようになったとは、信じがたいところである。主人公の「僕」がもう一度ホリーに会いたいと思いながら、そのことにもうひとつ積極的になれないのは、イノセンスの翼を失ってしまった彼女の姿を見ることを恐怖するからだし、おそらくそうなっているのではないかという予感があるからだ。彼はおとぎ話の一部としてのホリーの姿を、永遠に脳裏に留めておきたいのだ。それが彼にとってのひとつの救いになっているからだ。

 

と書いています。

 

 ホリーがイノセンスを失ってしまったのかどうかは分かりません。もしアフリカに男を従えて旅をしていた情報が本物であれば彼女はまだイノセンスの中にいるように思えるし、“アフリカ”は要は「ハイチの貧しい山奥」の「愛の寓話」(イノセントな世界)を意味しているのかもしれず、出会った時のままの「ホリー・ゴライトリー・トラヴェリング」なんだと思うのですが、「アフリカにいる」情報は確かなものではなく、主人公はその真偽を疑っています。そして最後、主人公はホリーも「アフリカだろうがそうでなかろうが、落ち着き場所を見つけることができるといい」と願っています。落ち着き場所を見つけるというのは、「イノセンスを失う」ことになるのだろうか。それともそうではないのだろうか。

 村上春樹の解説はとても面白かったのですが、いささか二元論的に読みすぎではないかと思う面もあります。イノセンスを失えば、「みずみずしい色合いを欠いた酷薄な大人の世界」に行くしかないのか。必ずしもそうじゃないからこそ、猫は居場所を見つけ、主人公はホリーもそうであってほしいと願ったのではないのだろうか。まあ、いつかは誰もがどこかに落ち着かなくてはならないと思いたいわけじゃないんだけどね。

 

北村薫『六の宮の姫君』

 米澤穂信のおすすめ本。とても面白い「日常の謎」ミステリでした。文庫版は1999年初版らしいのですが、90年代と考えても古めかしい、というよりも「正しい」日本語が使われていてなんかノスタルジックでした。「喫茶店をおごってしまった」(おごる=程度を超えた贅沢をするの意)、「意中の人がいると伝えたんだ」(普通は「結婚を考える相手」だけど、ここでは「思い定めた人」の意)、「彼氏、羅生門を下人の名前だと思ってたんだ」(「彼氏」は恋人に限らず、男性を指す三人称)などなど、こういう言葉としては正しいけど今はあまり使われない表現が頻出し、北村薫!好き!みたいな気持ちになりました。文章がよくてすいすい読んでしまいます。「私」の友人「正ちゃん」の喋り方も好きで。当時の「ボーイッシュ」なのかな。森博嗣S&Mシリーズのラヴちゃんとキャラ似てるなーと思った。2人が車に乗りながらずっと文学談義をしていて、小説というよりも評論みたいな感じなんですけど、正ちゃんの合いの手で小説の体裁が保たれてる感じするし、2人とも文学部の学生っていうのがいいですよね。それこそとてもイノセントな感じの世界観でした。

 男子京大生ジャンルと同じくらい、文系学生ジャンルも好きです。自分は大学は理系に行ったけど、やっぱ文学部には憧れあるもんなー。特に早稲田文学部には憧れます。

 謎解きについてはさらっと読んだだけではよく分からず自分なりにまとめたので、別記事後日出します。

 

カート・ヴォネガット浅倉久志訳)『タイムクエイク』

 どんなストーリーかというと全く説明できないのですが、めちゃくちゃ面白いです。ちょうど『六の宮の姫君』で「「話」らしい話のない小説こそ最も純粋な小説である」と言った芥川とそれに反論した谷崎の逸話を読んだところだったので、まさに「話」らしい話のない純粋な小説とはこのことではないかと思ったりした。

 まあ、だから、本当の「小説」って実際読むしかないんですよね。名作を10分でなんとかみたいに要約したり、誰かに説明してもらったりできないわけだ。これは映画など(漫画とかドラマとか音楽とかも?)にも言えるのかもしれませんが。

 これ読んで『グッド・オーメンズ』(ニール・ゲイマンテリー・プラチェット)をちょっと思い出しました。この作者、ヴォネガットのファンだったのでは?