「一首鑑賞」の注意書きです。
220.本当は声に言葉にしたかつた空を歌つてにごしたあの日
(中野迪瑠)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
この歌に立ち止まったのは海外ドラマgleeを思い出したからです。ミュージカルドラマなので何かと歌で気持ちを伝えるんですが、あるキャラが、昔の恋人のことが忘れられない自分の恋人に別れを告げるシーンで、「相手への気持ちを歌じゃなく言葉で伝えろ」って言うんですよね。なんか、すっごいメタな感想だけど、そうだよなって思ってしまって。この場合「歌ってにごした」っていうのは、多分自分の言葉じゃないからなんじゃないかなと思った。シンガーソングライターだったらどうか知りませんが、基本的に言葉で伝えるべきところを歌にしてしまう、というのは、誰かの言葉を借りているということなんだろうなと思ったので。なんかとてもややこしいですが、この場合いわゆる「和歌」で伝えるとかじゃなく、「ソング」の「歌」ね。辛い時に「上を向いて歩こう」を歌いながら歩く、みたいな。
しかし、鑑賞文にはこうあります。
「本当は声に言葉にしたかつた」、でも、できなかった。「空を歌つてにごしたあの日」、と今ならば振り返っておもうことができる。でもあの日、わたしには「歌」しかなかった。「空を歌」うことが、精一杯だったのだ。
それでも、「歌」があって、よかったなあ、とおもう。「本当は声に言葉にしたかつた」こと、そうできたらどんなに良かったか。違っていたか。だとしても、「歌」があってよかった。一冊を読み通しながらこの一首にあうと、そういう気持ちになる。
そうかあ。この一冊には、9歳から39歳までの約30年間の1500首以上の歌が詰まっているそうです。そこで、「歌」があってよかった、というのは、「短歌」の「歌」なのかな。あなたに伝えられなかった「声」「言葉」を、空に「詠った」、ということなんだろうか。
もしかしたら前後の歌を読めば分かるのかもしれませんが、この一首のみではどちらとも取れます。そしてこういうとき、なんだか、短歌も「歌」なんだなって当たり前のこと思った。もし『ショートソング』(枡野浩一)みたいな話だったら、やっぱり「大事なことは短歌じゃなくて面と向かって伝えろ」ってなんのかな。それともそれは和歌と同じく、「歌」は「自分の言葉」だから短歌でもよいという認識なんだろうか。歌人同士の夫婦とか、どうなんでしょうね。
雨の中誰かの言葉を聞いていた道まで溶けていくような雨 (yuifall)