「一首鑑賞」の注意書きです。
82.思うひとなければ雪はこんなにも空のとおくを見せて降るんだ
(小島なお)
砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた歌です。
最初はただ単に「言葉が綺麗な歌だなー」くらいのノリでクリックして、紹介文に
「短歌研究」の「あたらしい相聞歌をさがして」という特集に寄せられた10首連作の1首目。
とあって、今度はどのへんが「あたらしい相聞歌」なんだろう?って目で読み返しました。まずそもそも「思うひとなければ」なんだから、今は恋をしていない状態なわけです。相聞歌として考えると、逆に、「思うひと」があるときは雪は「空のとおく」を見せて降らない、ということになります。
鑑賞文に
この歌はその、よくもわるくも視野が極端に狭くなり、近視眼的になってしまう感じがかつての自分にあって、でもそこから今は隔たり、ものがよく見えるんですよ、風通しのよい心の状態にあるんですよ、そのことにハッと気づいたんですよ、ということを伝えているのだと思う。
とあり、あ、そっか、そういうことか、って思いました。恋をしているときは恋によって世界が塗り替えられてしまうけど、今では「空のとおく」が見える、ってことか、と。
多分、恋をしているときは、雪は「結晶」とか「一面の雪景色」とか、逆に「踏み荒らされる」とか「黒く汚れる」とか、そういう美しさや処女性、透明感、手のひらで溶かされる感じ、あるいはネガティブに、冷たさ、凍り付く、堆積する、もしくは蹂躙される感じ、っていうイメージで振れがちだと思うんです。だけど、「思うひと」がいない私には、灰色の空のとおくから降り注ぐ雪の様子が見える、みたいな。
鑑賞文には
こまかいことなのだが、「とおくの空」でなく「空のとおく」と詠まれていることに注意したい。
とあります。「とおくの空」だと、結局見ているのは「空」ってことになるのですが、「空のとおく」だと、見ているのは「とおく」です。視線が雪の、あるいは空の向こうへ突き抜けていく感じ。でもそこにあるのは、「視界が広がったわ」っていう前向きなニュアンスではなくて、灰色の空のとおくを見つめながら、目の前の雪に気持ちを向けていないというか、雪が頬の上で溶けて涙のように流れているのではないか、と感じさせるようなところもあります。
だけど、単に「失恋」って受け取りたくはないんですよねー。だって、「思うひとなければ」なわけで、もし好きな人にふられた状態だとしても、それは「思うひとがいない」っていうのとは違うと思う。どっちかというと、自分の中にもう愛情が残っていないことに気付いたときの虚しさ、やりきれなさとして読みました。ああ、私、愛してないんだ、っていう感じ。自分のものであっても、もう愛情は取り戻せないんです。
くちづけをもう求めない唇で「自分は変えられる」なんて嘘を (yuifall)
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