百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
十四・陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
古今和歌集 巻一四・恋四・七二四 詞書「題しらず」 河原左大臣
陸奥の染の名産・しのぶもじずりの模様のように、
乱れに乱れてしまった私の心。あなたのために。
あなた を おもい
ほんとう に あなた だけ を おもって
私 の こころ は みだれ に みだれる
みちのく の しのぶ もじずり
もじずり の 乱れもよう の 乱れ心 よ
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
東北の しのぶ摺りだよ 誰のせい
乱れ模様は 僕からじゃない
にっぽんのそこがびしょびしょ雑巾をしぼりわすれたわたしのせいか (望月裕二郎)
もともと短歌に限らず文章を読むときに、この読み方は多分ないだろうけどなーとか思う読み方も捨てられずに拘ってしまったり、普通に読めばそうはならないだろうっていう読み方してしまうことがあります。
石川啄木の
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心
も、明らかに「十五歳の若い心」だろうと分かってはいても「十五人の心」という読み方も脳裏を掠めるし、奥村晃作の
「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか
という歌も長いこと意味がよく分かりませんでした。(なんでわからなかったのか今ではうまく説明できないのですが…)
この和歌も「われならなくに」の部分を「わたしのせいではないのに」だろうなーと思いながらも「我なら泣くに」と未だに連想してしまいます。
しかし、私のそんな勘違いなど完全にどうでもよくなるレベルの望月裕二郎の歌にはマジでびっくりしました。一体誰視点なの??神?それとも、雑巾を絞り忘れて適当に吹いちゃった場所がびしょびしょで、その身近な場所のことを「日本のそこ」って言ってるの??そしてこの「そこ」はthereの「そこ」なのかそれともbottomの「底」なのか?そして「われならなくに」と言っているのに、「わたしのせいか」なの??
解釈が全くできませんが、とにかく面白いです。それぞれの歌には本人による解説?がついているのですが、この歌に関しては一切の説明がなく、自分で考えるしかありません(そこがいいっちゃいいのかもしれん)。それにしてもこの解説文も面白く、
それにしても百人一首の歌たちは、行ったこともない地名を歌枕として詠み込んでみたり、ほとんど意味のない枕詞をあしらってみたり、掛詞で駄洒落をいってみたり、純粋な言葉あそびとして自由だ。近代を経て短歌は、作者の「人生」や現実に対する「リアル」を問われるようになり、窮屈になってしまった。当然平安の歌だって、誰がどのような場面で詠んだかは鑑賞するうえで無視できない要素だ。しかし、約千年たった今もこれらの歌が読みつづけられているのは、作者や時代背景を離れて、言葉が自由に時間を旅し得たからではないか。
と言っています。
そうなんですよねー。和歌って内容を見ると意外に実は何も言っていないのですが、言葉の面白さや調べの美しさがメインなんですよね。歌詞っぽい感じですね。「歌」だし。自分自身は言葉遊び系の言葉の使い方はめちゃくちゃ苦手だし即興で作るのも苦手だから、当時の貴族の中で生きていける気がしません(笑)。
Patternless pattern というpatternもあってぼくの心はそうなっている (yuifall)