百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
九・花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
花の美しさは春の長雨にあせてしまった。
私が物思いにふけっている間に。
諸行無常の銀の雨
桜の花にふりかかる
わが青春にふりかかる
わが目にうつる銀の雨
諸行無常の銀の雨
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
花の色は 変わっちゃったわ だらだらと
ひとりでぼんやり してるあいだに
色もなき情報降れる世に咲きて移ろうものの息吹なつかし (佐伯裕子)
この歌、子供の時初めて出会ったときに心を奪われたのですが、今考えてもその理由は全く分からん。女ざかりは花!とか言われますが当時子供でそんな年代でもなかったし、当時はその色が褪せていく辛さも知る由もないし、でも、絶世の美女が雨に閉じ込められながら「私の人生もこうしているうちに盛りを過ぎたわ」っていう切ないイメージがめっちゃ心に残ったのを覚えています。橋本治版でも表に取り上げられているのがこの歌だし、一般的にも人気の歌なのではないだろうか。
徒然草にも
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
とありますし、褪せてしまった花にかつての美しさを垣間見るのが日本の精神なのか?いやむしろ女性の美しさという点に関して言えば、花は盛る前に摘み取るもの、という感も否めませんが…。てか日本人、女房と畳は新しいほうがよいって言うし、あんまりそういうわびさびを感じないな(笑)。
佐伯裕子の現代版では、「色のない」ものが氾濫する現代において「色褪せていく」ものの美しさを詠っています。
死があるから生が輝いている。老いがあるから若さが眩しい。散ってしまうから花は美しい。だから、この世の夢はこの世にて見よ、と告げられているようだ。(中略)
わたしはデジタル化と情報化の進む無機質な現代から返歌を届けたい。「色」の漂う余地もない情報社会にあって、花や容色のように移ろうものの息吹きは、むしろ新鮮で懐かしいものなのだ。
とあります。
情報に「色」がないのは、ないというよりも、一瞬で褪せてしまうからかもしれません。むしろ「めぐりあひてみしやそれともわかぬまに」というか…。全てが高速に色褪せていく現代においては、長雨の中でゆっくりと衰えてゆくものの方が愛おしく感じられるのかも。
そして残念ながら現代においても容色というものは普通に衰えるわけで、仮に美魔女的な感じであったとしても身体の内部は確実に老化するわけなのですが、今、「花」じゃなくなってからの人生の方が圧倒的に長いんですよね。青春が終わり、色が褪せるどころか花は散り果て、実も落ち、それからも長い人生があるわけです。
というわけでまあ、「推し」とか見つけて楽しく生きようぜ的な歌作ってみました。私自身はナマモノ萌えはしないタイプですが、「BTSは孫!」とか聞くしね…。自分の外見なんか自分では見えないわけですから、気にしなければ楽しく過ごせます!
色褪せてのちの生こそ長かれば推しのながめにふるペンライト (yuifall)