「一首鑑賞」の注意書きです。
185.人生のパズルを神はあらかじめ5ピース抜いて出荷している
(遠野サンフェイス)
これは砂子屋書房の『一首鑑賞』のコーナーで知ったのですが(鑑賞者は黒瀬珂瀾)、もともとの表題の歌は
なにとでも呼べる気持ちの寄せ植えにきみの名前の札をさしこむ
でした。
表題歌に惹かれてリンク先に飛んだら、他に紹介されていた歌が「パズルのピース」の歌です。
これ読んで、Katy PerryのTeenage Dream を思い出した。
I finally found you, my missing puzzle piece
I'm complete
というくだりですけど。
以前も「英語短歌」の感想の時に、洋楽ではflawlessとかperfectみたいな表現が頻出する、と書いたのですが、これもその一種です。
わたしはついにあなたと出会ったわ、あなたは私の失ったパズルのピース
私はこれで完璧になったの
っていう感じの歌詞ですが、これはやっぱり西洋的な発想なのかなあって。Complete、完全に満たされた状態こそが至高なわけです。
一方で遠野サンフェイスは、「あらかじめ5ピース抜いて」と、パズルが決して完成しないことを示唆しています。多分、生きていてこっちの方が感覚的には近いんじゃないかなとも思うんですが、これは文化の違いなのか、それとも「ハレとケ」の違いなのか(Teenage Dreamの歌詞は恋愛の最高潮の場面を歌っているわけなので)、それはよく分かりません。
黒瀬珂瀾は「普遍性」という言葉でこの人の短歌を説明しています。
感情の普遍性と、リリカルな詩性を両立させるのは、巧みに歌にはめ込まれたアイテムや言葉の選択の力かもしれない。(中略)既存の短歌界からは「短歌に似た短歌以外のもの」という評言がなされることもあるが、私性を裏書きとしないこういった「短歌」が、現代の日本語にまた新しい詩性を加えるのではないか、という気がする。
うーん、「感情の普遍性」と「リリカルな詩性」の両立って、私は最初枡野浩一の短歌を知った時に感じたことなんですけど、そういう既存の短歌とこの人の「短歌に似た短歌以外のもの」の違いって何なんだろうな。
実際は遠野サンフェイスの作品は
作者による写真作品と組み合わせたカード集の体裁を取っている。
ということなので、作品そのものを見ればまた感じ方が変わるのかもしれないなあ、って思いました。歌だけでも十分面白いですけど、この人の作品に関しては、歌だけを読むのは音楽の歌詞だけ見るような行為なのかもしれません。
満ち足りて僕たちは皆ここへ来たそれから欠けていくだけの月 (yuifall)