「一首鑑賞」の注意書きです。
98.中澤系の通夜より帰る美南ちやんに布袍の裾を摑ませながら
(黒瀬珂瀾)
砂子屋書房「一首鑑賞」で生沼義朗が紹介していた歌です。
この歌を引用しようと思ったのは、斉藤斎藤の『人の町、死ぬと道』で笹井宏之の死が取り上げられており、そこで引用されていた石川美南の歌を思い出したからです。
棺には付いてゆかずにしゆるしゆると啜りゐたりき貝の味噌汁 (石川美南)
この時斉藤斎藤は
この場面が、具体的にはいつ、どこでの出来事で、そして
その「棺」が誰の棺だったのか、
石川さんがあえて消去した理由は痛いほどわかるのだけれど。
わたしたちが味噌汁を啜り、とりとめのない話をしながら思いを馳せていた
その「棺」が誰の棺だったのか、
それ以上に書くべき何があるのだろうか、と
痛いほど思いもするのだった。
と書いていましたが、自分の歌にも「笹井宏之」の名は詠みこんではいません。尤も、歌集の中に大量の「地の文」(詞書?)が存在するために、何について詠んだかは誤読を許さないようにはなってはいますが…。
一方で黒瀬珂瀾は「中澤系」「美南ちゃん」と固有名詞を詠みこむことで、こちらも「誰の通夜であったのか」、明白に理解できるようになっています。鑑賞文には
歌からは、死を悼みながら無言で静かに歩を進めるふたりの人物が浮かぶ。それ以上のことも、それ以外のことも書かれない。余計なことを一切言わず、その姿を提示することそのものが供養とさえ思えてくる。同時に死者を悼むには、行動においても歌に詠む際においてもどのようにすればベストなのか、そこまでこの歌は問いかけているような気がしている。
とあります。まあ、黒瀬珂瀾が僧侶であることが分かっているので余計「死を悼む」ことについての「ベスト」を問いかけてくるように感じるのかもしれませんが、死の悼み方にベストなんてあるのかなって気がしないでもないですね。
固有名詞を詠みこんだ黒瀬珂瀾と、固有名詞は歌には詠みこんでいないが「詞書」に詳しく書き込んだ斉藤斎藤、誰の棺だったのかをあえて消去した石川美南、いずれの方法も間違いとは思えません。「誰の」通夜であったか、「誰の」棺であったか、歌にすべきという強い思いも、自分の心の中で分かっていればいいという思いも、どちらも切実に美しいと思うからです。
だからこそ、固有名詞を詠むときに、「後悔するだろう」とは思ってほしくないなぁって読み手の立場からすると勝手に思ってしまうのですが…。
鳥が鳴くみたいにきみの名を呼んだ他の言葉を全部忘れて (yuifall)
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