2024年6月12-18日
・森博嗣『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』
・森博嗣『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』
・爺比亭茶斗『もしChatGPTが文豪や〇〇としてカップ焼きそばの作り方などを書いたら』
・森博嗣『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』
・森博嗣『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』
・森博嗣『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?』
以下コメント・ネタバレあり
かの有名な『女か虎か』(F.R.ストックトン)を初めて読みました。いやこれはもう虎だろ、と思ってたら、そのすぐあとに『女と虎と』(J.モフィット)というアンサーノベルが載っててしかもめちゃくちゃ後味悪い話だったので虎どころじゃなかったです。米澤穂信おすすめの、リドルストーリーのアンソロジーでした。
ところで『女か虎か』では、王女が右手を指し示したこと、青年が「いささかのためらいもなく彼は扉に近づき、そして開け放った」ことは作中に明示されており、最後は「果たして右手の扉から現れ出たものは、女であったか、それとも虎であったか?」と締められています。これは素直に読めば青年は右手の扉を開けたということなんでしょうが、必ずしもそうでないようにも読めます。しかし『女と虎と』の冒頭で説明される『女か虎か』のあらすじでは、「いささかのためらいもなく、彼は右の扉に向かい、それを開いた」とあります。
青年は本当に、王女に従って右手の扉を開いたのだろうか?ここにある謎は、「王女が指し示した右手の扉の奥にいたのは女だったのか虎だったのか」だけでなく、「青年は王女に従って右手の扉を開いたのかそうではなかったのか」もあるのではないかなぁと私は思うのですが。
他には『穴の開いた記憶』(B.ペロウン)、『七階』(ディノ・ブッツァーティ)が好きでした。
・森博嗣『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』
シリーズ3話まで買っておいて積んでいた本。読み始めたらシリーズ全10話だしなぁ、とか、森博嗣作品ってキャラがクロスオーバーしてたりするから他のシリーズも読まなきゃ分からないかもなぁ、と思い積んでいたのですがとりあえず1冊目手を出してみました。今のところ他シリーズ読まなくても理解はできそうな感じです。それにしてもですけど、森博嗣はミューズ・マガタシキから逃れられんのか。極度に理想化された女を見るの正直キツいな…。四季博士と無関係の『スカイ・クロラ』シリーズが一番好きです。
主人公のハギリ博士の一人称で終始語られますが、「信用できない語り手」ものなのではないかという疑惑から逃れられないまま1冊読み終えました。この人がなぜこんなに自信満々なのかよく分からないんですよね。現時点で読者に開示されていない情報があるのではないのだろうか。それとも単にそういう人なのか?開発中のアルゴリズムは「人間とウォーカロンを見分ける」ものですけど、結局非破壊的に追試できなかったら本当に区別できているのかどうか分からなくない?結局最も知りたいのはボーダーラインの個体の識別なんだし…。「答え」が分からないデータを比較することに意味があるのか?やっぱり、遺伝情報や製造番号など客観的な指標からウォーカロンと確定している個体の中から「人間度数」が高いものを抽出して言動や思考のデータを取り、最終的には脳の組織検査をして「人間度数」が低い個体や人間との差異を検証するという非人道的手段でないと根拠が得られないのではないかと思います。この「死体の脳を調べれば区別できる」設定も不思議なんだよなー。ファンクショナルな部分だけじゃなく、マイクロあるいはナノレベルでアナトミカルに異なるということでしょ?個体のDNA見たりbiopsyでも分からなくて死体の脳全体を調べて分かるということは脳の少なくとも一部に何らかの、おそらくはエピジェネティックな変異があって結果としてどこかに異常タンパク(というかウォーカロン独自のタンパク)が存在するか、あるいは「パラサイト」説を取るなら人間の脳の方に外来ゲノムの組み込みがあって異常タンパク(というか人間独自のタンパク)が存在するということなのだと思うのですが、ターゲットが分かっているならいわゆるchemical imagingなどで非破壊的に調べるみたいなテクニックがあってもよさそうな気が。そもそも機能的に異なるのだから、fMRIとかで検出できないのか?200年経っても認知症テストレベルのことやってんの?
生殖にまつわる「パラサイト」説はおそらくミトコンドリア的なものから生まれた発想なのではないかと思ったのですが、そんな細胞内小器官じゃなくても例えば腸内細菌とか皮膚常在菌とか、明らかに人間は人間の細胞だけでは成り立っていないわけなので、生殖能力を失ったのはパラサイトを失ったからだという発想に至るまでにそんなに時間がかかったこと、それを告げられた研究者たちが驚愕することには結構な違和感がありました。腸内細菌の研究によれば、食事によって腸内フローラは変わるし、一方で腸内フローラが脳に働きかけて人間の食行動をコントロールしているのではないか(人が何を食べたいと思うかは腸内細菌が決めている)とも考えられているみたいですね。つまり人間は明らかに自分自身の脳からだけではなく肉体や人間の以外の細胞からも制御を受けているわけで、ウォーカロンにせよ未来の人間にせよ、自分自身に由来するDNAだけで成り立つ高等生物などいないのではと思います。そもそも、出生後に細胞を綺麗なものに入れ替えて病気も治せるし若返りもできるという設定であれば、出生の段階ですでに生殖細胞系列の病的バリアントは全て排除されているはずで、つまりこの世界に現存する人類はほぼデザイナーベイビーであることが推定されます。彼らに生殖能力がないのだとしたら、後天的にウイルスか何かの影響を受けたと考えるより、遺伝子操作の段階で「あったはずの何かが失われた」という発想になる方がむしろ自然なのではないか?
まあその辺は設定なのでいいとして、その「パラサイト説」を生殖に持ち込んだのは、「生物」の定義への挑戦という意図もあるのか?と思ったりした。生物の定義として一般的に(1)外界と膜で区切られる(細胞を持つ)、(2)自律的に代謝する、(3)自己複製能を有する、が挙げられます。ここで人間が「パラサイトなしに生殖できない」説を持ち込むことで、人間の自己複製能とは…、と言いたいのかなと感じました。まあ、実際には「自己複製能」というのは細胞が分裂・増殖過程を経ても同じ特性を維持して複製する能力のことだし、生殖は同じDNAを持つ自己の複製とは全く異なる概念なので、同列にしては論じられないのですが。それ言ったら寄生バチとか虫媒花とかどうなんだよってなるしね。作中でも生殖能力のないウォーカロンは「人間」か否かは議論されても、基本的には「生物」と見なされている世界観なので(もちろん宗教的な理由や信念、慣習から「機械」「物」と見なす人たちもいるとは描写されていますが)、別にそういうことを言いたいのではないのかもしれないです。
とりあえず読んでみないと分からないですよね。色々書いたのですが、設定が魅力的なので深掘りしたくなるんだよなぁ。。これはこういうことかも??とか色々考えてしまう。
米澤穂信のおすすめ本で、「奇妙な味」の短編集です。「奇妙な味」にふさわしく、ピュアに後味のいい話はシャーリイ・ジャクスンの『お告げ』くらいです。ジョン・スタインベックの『M街七番地の出来事』がめっちゃ面白かった。笑ったわ。最初の『肥満翼賛クラブ』(ジョン・アンソニー・ウェスト)はオチは予想つくしそんなひねった話じゃないのですが、語り口が独特でとても面白いです。『ディケンズを愛した男』(イーヴリン・ウォー)、『赤い心臓と青い薔薇』(ミルドレッド・クリンガーマン)はめっちゃ後味悪い。他、『試金石』(テリー・カー)、『大瀑布』(ハリー・ハリスン)も好きでした。全体的にとても面白かったです。
・森博嗣『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』
これは…。キャラクターが年寄りだからキレが悪いの?それとも作者が年取ったから?いや私が年取ったから?80代の主人公と160歳くらいの博士があまり具体性もない抽象的な話をお互い「天才だ」とか「君は優秀だね」とか言い合いながら「これは普通の人には理解できない内容なんだ…」みたいな感じに語り合うという、読んでてちょっときつい話でした。高杉良の『巨大外資銀行』を彷彿とさせるおっさんドリームになってて、正直けっこうショックでした。うーん、もともとS&Mシリーズの時から犀川先生の“俺IQ高いです”と“若い美人が俺に夢中です”的空気はあからさまではあったのですが、ここまでおっさんドリームだと思ったことなかったので…。これは、実際キャラクターが頭よく見えるかの違いなのかなぁ。犀川先生は頭よく見えたし萌絵ちゃんが好きになるのも納得できたから気にならなかったのですが、今回のキャラは今のところそんなに思考のキレを感じない…(『巨大外資銀行』のキャラクターに関しては全員ぺらっぺらすぎて怒りをおぼえるレベルでした)。マザーボード(だっけ?)の話も、結局は『すべてがFになる』の焼き直しというか、トロイの木馬ではないんか。全てを見通す女神・マガタシキの手のひらの上みたいな…。
うーん、でもリアル天才キャラが専門性高い会話するとこっちが理解できないから一般人のレベルに合わせて極度に抽象化した会話しかさせてないということなのだろうか。しかし、アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は知識や描写が具体的でとても面白かったんだよなぁ。このシリーズ今のところ2作しか読んでませんが、作者の専門である工学に関する内容はわりと面白くても、生物学関連になるとうーんってなることが多い。まあでも実際ニューラルネットワークみたいな数理モデルのことを考えると、分野によっては工学と生物学の境界はけっこう曖昧なのかもしれないし、AIモノのSFだと避けては通れないんだろうなとは思います。
またここばっかり読んでるのですが、東堂が好きなので仕方ない。この人のキャラとか口調が未だに全然つかめないままです。11巻の初登場時だとわりと口調ぞんざいなんですけどその後武士みたいになるし、初対面の巻島に「オーラゼロだな」とか小野田に「三下だな」とか言ってるんですけどその後の感じだとそんなこと言いそうに見えないし(むしろ礼儀正しい)、単に最初はキャラが確立されてなかったってだけなのか、私が全くつかめていないだけなのか、よく分からん。中学→高校→大学で人格が非連続に見えるし(なんであんな冷めた中学生があんなチャラい高校生になり、今度はクールな大学生になる?)。親友との別離・再会を経てキャラ変したのでしょうか。
まー、でもそういえば興味ない人にはけっこう冷たい感じだからそんなに変わってもないのか。修作(中学・大学編)や荒北(大学編)といる時の挙動を見てると、コミュニティ内に盛り上げ役がいない場合のみチャラくなる、みたいな「おもてなし精神」にも見えます。あとはシンプルに巻島にだけ態度が違いすぎて、我々はそこを最初に見せられたからその印象が強いけど、むしろ彼の人格の中ではそこだけが特異なポイントだったというだけかもしれん。
・爺比亭茶斗『もしChatGPTが文豪や〇〇としてカップ焼きそばの作り方などを書いたら』
これは、興味深い書籍ではありましたが、全く面白くはなかったです。作者が「爆笑」とか書いてるのにとても冷めます。これで笑えるとか…。どうなってんの。内輪ネタをそのままお出しされてる感。ChatGPTが書いた、という一点のみで興味深いとは思うのですが、はっきり言って笑えるレベルには全く達してないです。逆説的ですが、人間が書いていたとしたら読む価値もないレベル。まあ少数ながら多少面白いなと思ったのもありましたが、もうどれだったか忘れたし読み返すのもダルいのでいいや。
またここばっかり読んでるのですが東堂と田所が好きなのでしょうがない。まあ最初の3年生だいたいみんな好きなんだけどね。スペバイ楽しすぎます。
ところで私はめちゃくちゃ情弱なのでカラオケまねきねこと弱ペダがコラボしてたことを今さら知ったのですが(*2カ月以上前に終わってます)、それぞれのキャラが歌う歌が3曲ずつ挙がってて、東堂の曲はMrs. GREEN APPLE『StaRt』、ORANGE RANGE『イケナイ太陽』、Vaundy『怪獣の花唄』でした。私が知っている曲は『怪獣の花唄』だけだったので他調べて『イケナイ太陽』の歌詞見てマジかってなった。これアリなんですか。冒頭から「お前のセクシー・フェロモンでオレ メロメロ」で死んだわ。チャラいと思ってはいたが、想定していたよりガチ目にパリピでした。いやまあリアル寄りに考えるとファンクラブ持ちの陽キャが高3まで何もないわけないよな、ほんと。
色々考えて納得しようとしているのですが精神的暴走が止まりません。私はイメソンとか好きなタイプのオタクですけど、自分の妄想じゃなくて公式からお出しされた曲がこれっていうのが破壊力強すぎるのよ…。東堂がこれ歌うかと思うと…。どうして音楽ってこんなに心を狂わせるのだろう。Gleeがヒットするわけだよね。
この中で一番合うかなと思ったのは『怪獣の花唄』です。歌詞の「唄」を「走り方(スタイル)」に、「ギター」を「自転車」に変換して聴けばまんまだし、MVの友情の感じも修作や巻ちゃんが遠くに行っちゃったシチュエーションにぴったりだし。自転車(ママチャリ)で爆走してるし。『StaRt』は正直ピンと来なくて、私が一番東堂っぽいと思う歌は米津玄師の『感電』ですね。
たった一瞬のこのきらめきを 食べ尽くそう二人でくたばるまで
そして幸運を僕らに祈りを まだ行こう誰も追いつけないくらいのスピードで
それは心臓を刹那に揺らすもの 追いかけた途端に見失っちゃうの
きっと永遠がどっかにあるんだと 明後日を探し回るのも悪くはないでしょう
稲妻のように生きていたいだけ
お前はどうしたい?
返事はいらない
他のキャラとかもめちゃくちゃ語りたいけどほんとにキリないのでここまでで…。あ、1つだけ、巻ちゃんの曲はImagine DragonsのIt’s Time 推したい!曲名にTIME入ってるし♡
それにしても『イケナイ太陽』の脳内占拠性がすごくて頭の中をずっとあのサビがループしてます。。
・森博嗣『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』
生物の定義の話出てきましたねー。いやー、それは出さないで欲しかったなー。だから「自己複製」と「生殖」は別物なんですって。生殖はむしろ、同じDNAを持つ自己の複製ではないですからね。あとこの世界2世紀後という設定なのに人間の思考のキレ悪いなーと思ってたのですが、その辺のことは作中でしっかり説明されてたので一応納得。ストーリーは面白いし続き読みたい気持ちにもなるのでとりあえず5巻まで更に買い足したのですが、話の内容に納得できるかというと微妙である。
論文読んでるわけじゃないしそこまできちんと一字一句辿ってないので自分の理解と記憶が合ってるか不明なのですが、もともとハギリ博士は人間特有の思考の飛躍とか非論理的行動なんかを基準に人間とウォーカロンを識別するアルゴリズムを組んでたと思ってたんですよね。それが3巻になって「その思考の揺らぎを手に入れたウォーカロンがいる、彼らは人間になったのだ」っていうのは(多分この世界ではそれが正しいのでしょうが理論的には)、自分の作った前提に現実を当てはめる思考の飛躍ではないのか?むしろ、「思考の揺らぎを手に入れたウォーカロンと人間は真に鑑別困難なのか(他に鑑別基準はないのか)?」、つまり「自分の考える基準では人間とウォーカロンの鑑別はできないのでは」という発想も同時に持つべきでは?彼らを人間と見なすなら、まずは「思考の揺らぎこそが人間とウォーカロンを隔てるものなのか」という前提の検証がいるじゃん。具体的には、脳の破壊的検査によって人間とウォーカロンの鑑別ができるという設定なので、思考の揺らぎを持つウォーカロンの脳の(破壊的)組織検査が必要じゃないですか?それから、グレーゾーンというか移行状態にあるサンプルも複数必要だと思うし。その上で変容のメカニズム(これに関しては癌やウイルスみたいな変異の組み込みという仮説が提唱されてました)や再現性の検討も必要ですよね。で、「思考の揺らぎを持つウォーカロンは人間の脳組織と同等の脳組織を有する」ということが証明されて初めて、じゃあそれが人間になったということなのか?って考えるべきでは?つまり、生殖というプロセスを経ないと人間ではないのか、それともウォーカロンとして作成されたのちに人間と同一の脳組織、思考回路を得たものも人間と認めるのか。
またここでは生殖できるウォーカロンと、人間とウォーカロンの間の子供が登場します。「生殖」というファクターが絡んで更に定義がややこしくなっているのですが、でも見た目も性能も同じだとしても定義上同一とするかどうかは、常に定義を適応するコミュニティの社会的同意によりますよね。ここで「人間になった」という発想に飛びつくのはどうなのかなぁ。「僕の識別システムは、その一歩を検出しているのだ」というのはつまり「人間度が高まったウォーカロンを検出可能」ってことだとは思うのですが、今までも「人間っぽいウォーカロン」と「ウォーカロンっぽい人間」の検出に関する話題は出てきたのに、どうしてここで急に「そうなんだ!」ってなるの?50%に近い数値が出た場合や判定が逆だった場合、そのファクターは何なのか、検出すべき「人間らしさ」とは何なのか、それを有するウォーカロンがなぜ存在するのか、今までだって検討してきたのでは?ていうかそれを踏まえてなお精度を高めようとしてきたのでは?それを今度は「人間になった」と解釈するなら、検出の目標値というかゴールが全く変わってしまうじゃん。だってハギリ博士が「ウォーカロンは人間になりうる」と考えるなら、「人間っぽい思考・行動パターンを持つウォーカロン」から採取したデータは、従来の定義だと「ウォーカロンのデータ」として入力されるけど、その個体を人間と定義するなら「人間のデータ」ってことになっちゃうじゃん。恣意的に過ぎないか?検証の前提となる定義を勝手に変えちゃダメじゃないの?
そういえばウォーカロンにはバックドアがあるので、「魔法の色を知っているか」コマンドで鑑別できるのかな。結局は。それが科学的と言えるかどうかはともかく、この停止コマンドが効かないやつは人間ということになるのかもしれん。
・森博嗣『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』
これはPOIじゃん♡ マシンvsサマリタンでゴッド・モードのエージェントを戦わせるのだ!デボラがマシン過ぎてときめく。
いやマジでPOIだったのでけっこう楽しかったです。結局人工知能同士の戦いってこうなるのか。人工知能が覇権を取りたい勢と人間にお任せしてもよい勢でシミュレーションを重ねつつ物理的にぶつかり合うという。で、どれほどサイバー上でバトろうが結局は本体の位置情報がバレて物理的に破壊された方が負けという。
しかし前回の感想で「バックドアがあるじゃん」とか書きましたが、自律的アルゴリズムによってそれはすでに無効にされたもよう。なんだー、かっこよかったのになぁ。トランスファとの戦いもいたちごっこになることがほのめかされてました。
・森博嗣『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?』
マイケル・ルイス『フラッシュボーイズ』と森博嗣『有限と微小のパン The Perfect Outsider』のフュージョン版みたいな。「入ったら出てこられない」ってこういうことかぁ!途中でヴァーチャル世界に入ったアネバネの正体違う人なんじゃないかと思ってたら本人でした。フィガロがシンだったとは。そしてシンがおばあちゃんだったとは。
こういう「理想の世界」として登場するヴァーチャルリアリティものを見ると、結局他人をコントロールできない以上完全な満足は得られないのではないか、逆に他人を完全にコントロールできる世界で人間が満足を得られるのか、という矛盾をいつも感じます。「理想の世界」っていうけど、ここではヴァーチャル空間で結婚しているカップルが出てくるのでわかりやすく恋愛を例に挙げると、AさんがBさんを好きでCさんもBさんを好きでBさんはAさんが好きだったら、Cさんにとってはそこは理想の世界ではないですよね。もしそこが「理想の世界」であれば、初音ミクと結婚するみたいな感じでBさんが複数存在する世界観になるの?でも初音ミクはヴァーチャルキャラクターですがBさんには一人の人間としての連続した人格や自我があるわけで、それはどうなる?あるいはAさんにとっての現実とCさんにとっての現実が異なるという、ミクロなヴァーチャルリアリティが人間の数だけ存在する世界線にならないか?そしてそこで生きている場合、自分にとって不都合なことが一切生じない世界で人は満足を得られるのだろうか。100点満点がデフォルトになったら地獄では?物理的空間から切り離されれば思い通りでハッピーなんて幻想だと思うけど…。あとヴァーチャルリアリティだから合理的とは限らないと思う。例え肉体がなくても固有の人格を持つ存在が集合すればいくらでも非合理的な状況は生じうるのではないか。
今のところメインキャラクターはほとんど人間なのでウォーカロンとずっと一緒にいるシーンって少ないのですが、ウォーカロンが人間に憧れているという描写から、カズオ・イシグロの『私を離さないで』を連想しました。まあ存在としては似ていると言えなくもないよね。
この話ではローリィ、デボラなど、人間でもウォーカロンでもないという自己認識のキャラクターが複数登場し、「自分は生きていない」と語ります。それに対してハギリ博士はこう言います。
「私は、デボラは生きていると思う」僕は個人的な意見を述べた。「自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ、と私は解釈しているから」
いやそれは違くない??それが「生きているという意味」だったら、この世界で「生きている」のって、ある程度物心のついた、ある程度知能の発育が保たれた、認知症ではない人間だけになっちゃうよ。私はそんな定義を容認することはできません。もちろん文脈的には、「人工知能も“生きている”と言えるのではないか」という意味合いなのは分かるけど、この定義かなり差別的なの分かって言ってるのかな。認知症の老人とか生きてるうちに入らないってことになっちゃうからね。多分気付いてないよね。細菌とか、絶対に自分の存在を意識してないし複雑でもないし感情もないけど生きてるからね。これは、まあ、「ある程度以上に特異的な人格が連続性をもって保持されている」という意味合いであれば分かります。
ただハギリ博士は、自分自身も含めて人間の感情的な部分を蔑ろにしない点は好きです。私は人間の感情や非合理性(つまり現実に存在するもの)を軽視する人を理性的だとは思わないので、そういう点も理解し、加味して世界を見る視線が好きです。結局10巻まで買ったので続けて読みます。
青空文庫で本当に『檸檬』だけを読みました。今さら私がぐだぐだ言うようなものでもないので解釈とかは特にせずに文章を味わって読みました。