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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』とサマセット・モーム『月と六ペンス』の感想1

 カズオ・イシグロ土屋政雄訳)『わたしを離さないで』とサマセット・モーム土屋政雄訳)『月と六ペンス』の感想です。

 以前読書日記 2024年2月28日-3月5日で感想後で載せると書いてたのですがけっこう時間開いてしまった。

 

 なんでまとめて感想書くんだと思うでしょうが、たまたま立て続けに読んで色々考えたので。相変わらずとっちらかってるので載せるのを長く躊躇っていましたが、時間置いたって中身が変わるわけでもないし載せる。長いので2回に分けます。

 以下、内容に触れています。

 

 『わたしを離さないで』は、一般的にSFやディストピア小説、ミステリであるとは理解されていないようです。実際、謎を秘めた状態で始まり終始不穏な語り口で語られるのですがミステリではありません。普通に1P目からネタバレが入ります。また、SFやディストピア小説としてはあまりに設定が曖昧すぎます。多分思考実験みたいなものなんだろうと思います。私は、『スローターハウス5』や『夜と霧』と同様、「それでも人生にイエスと言う」という意味と受け取りました。

 

 がっつりネタバレすると、主人公は臓器移植のために作られたクローン人間です。この小説に描かれていることは、倫理的な問題がまずありますけど、純粋に科学あるいは資本主義的な見地からもまず成り立たないと思う。ベネフィットに対してかかるコストが高すぎて全くペイできると思えないし、この手段で解決できる問題は小説の中で書かれているほど多くはないからです。もちろん臓器移植で助かる人はたくさんいますけど、一方で癌や運動ニューロン病などは臓器移植じゃまず解決不能ですよね。

 もし仮に、臓器培養ではなくて移植用クローン人間の作製を実際やるとしたら脳の機能の一部を欠損させた状態で臓器が成人に移植可能な年齢になるくらいまで最低限のコストで育て、期日までに適合するレシピエント候補を集め、ドナーの全臓器を一気に摘出する方法を取るのでは。18歳まで無償で育ててその後も生かしておきながら摘出臓器平均3個じゃ全く割に合いません。だからここではクローン人間の倫理みたいなことがピュアに問われているのではなく、何らかのメタファーとして捉えるべきなんだろうと思います。

 

 主人公たちは「普通の人間」ではないとされており、彼らが置かれた状態には

(1) 生殖はできない(性行為は生殖と切り離されている)

(2) 創造性によってのみ人間的であるという評価を受ける(人間的であるということは創造性を持つことだとされている)

(3) しかしながらいかなる評価を受けようとも自己実現をなすことはかなわない

(4) 他人のために死ぬ運命である

という4点の特徴があります。じゃあ逆説的に考えて、「普通の人間」というのは

(1) 生殖可能である

(2) 創造性を持つ

(3) 自己実現可能である

(4) 自分のために生きることができる

という点によって証明されるのだろうか?

 

 これを読んでて最初に思い浮かべたのは、近代、というかつい100年くらい前までの人の暮らしでした。人は過酷な環境で暮らし、子供を何人も産んで多数失い、生きるため、子供を生かすために労働して命をつなげてきました。創造性とか自己実現なんて可能だったのはごくわずかな恵まれた人だけだっただろう。これは、作り出され、成長して介護者となり、最後は提供者となって終わるキャシーたちの人生と何が違うのだろうか。違うとしたら生殖という一点ですが、それによって“介護”“提供”する対象が他人から我が子に変わるだけでやってることは同じですよね。現代になって私たちは創造性と自己実現の可能性を得ましたが、それが人間性の証明であるとするのはあまりに傲慢ではないのか。

 そしてまた、これも難しいなと思うのは、創造性および自己実現、自分のために生きることと、生殖というのが、相容れないとは言いませんが相性がよくない領域だと思うんだよね。現代人は、まあ一般的にですが、創造性と自己実現の可能性と引き換えに生殖を犠牲にしてます。16歳くらいから45歳くらいまで子供産み続けて子育てのために一生を捧げようと思う人はあまり一般的じゃないでしょう。みんな、介護者や提供者として一生を終えたくない、それが悲惨だと思っているからです。

 一方ここでは生殖とは無関係に介護者・提供者としての人生を背負わされている存在が描かれますが、その運命に逆らわず自己実現を目指さない彼らは人間的ではないのだろうか。それでは、近代以前の人間の大半は人間的ではなかったのだろうか。人間として生きるとはどういうことだろう。結局のところ、近代だろうが今だろうが、生殖をしようがしまいが、創造性を発揮しようがしまいが、自己実現をなそうがなすまいが、我々はみな自分のためだけに生きることなどできないし、社会における“介護者”、“提供者”として死すべき運命ではないのか。

 

 とまあここまで書いた時点でいったん感想文終わらせてたんですが、次に『月と六ペンス』を読んで色々考えたので更に書き足しました。

 

『月と六ペンス』はストリックランドというある画家(モデルはゴーギャンらしいです)について「私」が記載する形の小説で、読み始めはあまり気がのりませんでした。単にタイトルがかっこいいから読んでみようくらいの気持ちで内容もほとんど知らなかったし。でも16ページまで読んだところで

 

 昔、ある人に言われたことがある。魂の成長のためには、毎日、いやなことを二つ実行しなさい……。誰に言われたかは忘れたが、きっと尊敬できる人だったのだと思う。だから、私はその教えを几帳面に守りつづけ、朝には必ず起床し、夜には必ず就寝してきた。魂の成長にはこれで十分なはずだが、私は性格的にやや自虐的なところがあって、これ以外にも毎週一回、もう少し難しい訓練をわが身に課してきた。

 

って書いてあって、面白すぎてぐっと興味がわきました。

 

 ストリックランドは普通の仕事、普通の生活をしていた妻子持ちの男なのですが、40過ぎてから画家になるために突然出奔してしまいます。「私」はストリックランドの妻に頼まれて彼と会話するのですが、彼は取りつく島もありません。ストリックランドは、40半ばまでいったいどうやって普通の生活してたんだ?ってくらい社会病質者的な人物として描写されます。まさに

(1) 生殖可能である

(2) 創造性を持つ

(3) 自己実現可能である

(4) 自分のために生きることができる 

の4点を兼ね備えた人物なのですが、この4点の条件を全て満たすと人間的どころかむしろサイコパス(異形の天才)っぽく見えるのがすごく興味深いなぁと思いました。

 

 その後ストリックランドは自分の世話をしてくれた男の妻を寝取って捨て、その女性は自殺してしまいます。「私」は彼を再度問い詰めますが、全く議論になりません。

 

「愛なんてくだらん。そんなものに割く暇はない。それは弱さだ。おれは男で、ときどき女が欲しくなる。なんとか満たしてやらんと、次に進めんだろ? この欲はなかなか克服が難しい。なければどれほどいいかと思うぞ。精神を虜にするからな。いずれそんな欲から完全に開放されて、邪魔されずに仕事に打ち込みたいもんだ。女ってのは、愛すること以外に何もできんのだな。滑稽なほど愛を大きなものだと思い込んでる。愛こそ人生のすべてだなんてぬかして、男を説得しようとする。実際はどうでもいいものよ。肉欲ならわかる。それは正常で、健康的だ。対して、愛は病気だ。女はおれの快楽の道具であって、配偶者でも、連れ合いでも、伴侶でもない。そんな言葉には反吐が出る」

(中略)

「生きる時代を間違えましたね」と私は言った。「女が財産で、男が奴隷を支配する時代に生まれればよかった」

「たまたま完全に正常な人間に生まれついたってだけの話だ」

(中略)

「あなたはとても人間ではない」と私は言った。「こんな話をしてみたところで、生まれつき目の見えない人に色を説明できないのと同じだ」

 

 このくだりは『わたしを離さないで』でキャシー、トミー、ルースがあれほど「愛」に固執し、愛し合う2人なら生き長らえられると信じたナイーブさと対比して読めるし、さらにはここでストリックランドが「完全に正常な人間」と自称することがまた示唆的で面白かったです。

 

『わたしを離さないで』を読んで、最初、これは「人間性とは何か」「人間的であるとはどういうことか」という問いかけではないかと受け取ったんですよね。ここでストリックランドは

(1) 生殖可能である(が、肉欲と愛を切り離せる)

(2) 創造性を持つ

(3) 自己実現可能である

(4) 自分のために生きることができる

自分を「完全に正常な人間」と言い、これはキャシーたちが

(1) 生殖はできない(性行為は肉欲および愛のためのもので、特にストーリー後半では愛し合っていることの証明として行われていた)

(2) 創造性によってのみ人間的であるという評価を受ける

(3) 自己実現をなすことはかなわない

(4) 他人のために死ぬ運命である

ことから「普通の人間ではない」とされる状況と概ね一致します。しかし客観的には、ストリックランドの方が「私」によって「あなたはとても人間ではない」と評されます。

 

 小説の後半、「私」はストリックランドが生涯を終えたタヒチを訪ね、こう独語します。

 

 ここの人々の話を聞くたびに、私の中では一つの思いがしだいに強くなってきていて、いまも歩きながらそのことを考えた。ヨーロッパでは大の鼻つまみだったストリックランドが、この遠隔の地ではそうではない。思いやりの心で迎えられ、奇行や気まぐれを寛容に受け止めてもらっている。この地でもやはり(土地の人にもヨーロッパ人にも)変わり者と見られているのは同じだが、それはあくまでも変わり者の一人という意味だ。世界は変人でいっぱいで、変人は変なことをする。それが当然だと受け止められている。人はなりたいものになるのではなく、ならざるをえないものになる――ここの人々はたぶんそう思っている。

 

 人はなりたいものになるのではなく、ならざるをえないものになる。『わたしを離さないで』で描かれたクローンたちも、『月と六ペンス』で描かれた天才も、その目で見れば同じなんだろうと思いました。そして同時に思ったのは、『わたしを離さないで』で描かれるクローンたちは、(「普通の人間ではない」とされていますが、むしろ)わたしたち「普通の人間」のメタファーなんだろうと。

 

 続きます。

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