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読書日記 2024年6月19-25日

2024年6月19-25日

森博嗣『青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?』

森博嗣『ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?』

森博嗣『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』

森博嗣『天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?』

森博嗣『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』11巻

万城目学プリンセス・トヨトミ

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』1, 7, 8巻

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』9,12巻

・ラヴィ・ティドハー(茂木健訳)『完璧な夏の日』上下

 

なんか今回の感想文長い上に全体的に愚痴っぽいです。なぜこうなった。

 

以下コメント・ネタバレあり

森博嗣『青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?』

 最初の「デボラに恋したのでは」というくだりで、もしデボラを男性だと認識していたら「恋した」という発想になるかなぁ、と考えてしまった。とても気の合う友人くらいなのではないか。女性と仮定しているから恋愛だと思うのでは?その直前のシーンで夢でデボラが美女として登場するように、何か仮想的な肉体を想定しているわけで、実体のない人工知能であってもそういう部分を基準に「恋かも」と思うのが不思議だなぁと感じました。POIもフィンチとマシンは最終的にラブラブでしたが、こういう、全能の女と繋がっていたいというのは普遍的な願望なのだろうか。年老いない、いつまでも(自分より)若く美しい母親のようなもの?

 今回は「オーロラ」という人工知能が出てくるのですが、鬱っぽくなってて面白かった。面白いと言っては失礼ですが、人工知能も精神病なるのか…って。なるのかなぁ。オーロラとフーリの関係も、マシンとルートみたいだった。こういうAI系のSFで相似の関係性が見られるのも興味深いですね。やっぱり、「こうなるだろう」という想定の方向性がある程度存在するのだろうと思います。ここでハギリ博士はオーロラとフーリの関係についても「恋」と形容していますね。デボラとハギリ、オーロラとフーリの関係性は、恋というよりもむしろ、以前ここにも書いたマイケル・ルイス『後悔の経済学 世界を変えた苦い友情』のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーの関係に似ているかなと思いました。

 

「彼と一緒にいるだけでよかった」と、ダニエルは言う。「他の人に対してはそんなふうに感じたことはない。人は恋するとか、そういうときがあるだろう。しかし私は心を奪われていた。わたしたちはそんな感じだった。本当に異例なことだった」

 

「心を奪われる」、ですね。

 また設定の点で分からなくなったのは、ハギリ博士が「ウォーカロンから人間を作れる」「これを人間として受け入れるのかは科学者の決めることではない」と葛藤するシーンがありましたが、そもそもクローン技術はすでに存在していて人間を作ること自体はできるけれども、何らかの倫理的な理由で禁じられていたって設定じゃなかったっけ。人間を作れるかどうかで今さら葛藤する必要があるのか?それに今までの設定からすると、「脳機能が失われても回復はできる。その人が助かるというのは人格の連続性を意味するが、人格が失われても命を救うことはできる」、ということはつまり人間の大脳を作ることは今までもできていたはず。でもウォーカロンは人間と脳機能が違っていて、しかもクローンと見なされていないということは、高次脳機能を司る部分だけ他のボディとは別の方法で作っているということではないのか?その作成法の違いから、ウォーカロンを人間にする方法やその識別法を検討した人は過去に存在しないのか?そしてなぜウォーカロンの脳と人間の脳を体外的に、あるいは生体で識別することができないのか?

 あと、前回脳だけになってヴァーチャルの世界に入っちゃったウォーカロンたちいましたが、別の身体に移植ってできないもんなのか?「ロボットなら…」と言ってたけど、人工細胞の肉体には入れないの?それはなぜ?と考えると結局中枢神経系って大脳だけじゃなくて小脳、中脳、橋、延髄から脊髄に連続しているので、脳と肉体を本当に切り離せるのかというと正直分からないし大脳だけを生体に移植することはできないってこと??それって上記の設定と矛盾しないか?だって脳があるなら同じDNAから身体作ればいいじゃない。

 うーん、まあ、このシリーズを貫く設定については、形而上的には意味は理解できるんです。で、設定を疑うのではなく一種の思考実験として、その設定を前提として物事を(科学的にではなく)哲学的に考えるべきだというのは分かっているのですが。つい具体的にどういうことなのか考えちゃうというだけで…。

 

 面白いなと思ったのはこのくだりです。

 

 こういう余計なことを考えてしまうのが、人間の頭脳の特徴だ。今からの任務にまるで関係がない。考えることによって、集中しなければならない対象から注意が逸れる。無駄なことであり、危険なことでもあるのに、何故人間の頭脳はこんな活動をするのだろうか。ウォーカロンは、きっと不思議に思うだろう。人工知能は、この問題を説明できるだろうか。

 

 分かるわー。そもそもが無駄な思考だと思いながらこの感想文も書いてるわけで…。ただ書きたいんだもん。今日なんて仕事中ずっとORANGE RANGEの『イケナイ太陽』が頭をぐるぐる回ってて(詳細は前回の感想で書いた通りなのですが)、こんな不適切な思考は即刻止めてほしいと思いながら仕事に集中しようとしてました。人間はどうしてこうなるのか?望んでもないのにどうして急に不適切あるいは不謹慎な考えが浮かぶのか?人工知能からはそういう思考回路は多分排除されてるんですよね。そう考えると面白いですね。人間には思考のノイズが非常に多いですもんね。今回描かれたオーロラのように、進化した人工知能はむしろ無駄の多い思考になるのか?それとも人工知能も老いるのか?そういえばフィクションで描かれるような、他人の感情が理解できないタイプの自閉スペクトラム症の人って、こういう思考のノイズはないのだろうか。あれはフィクションだから?それとも本当にそうなのか?

 

 あとは引用されているエピグラフにぐっときました。

 

 それは文明の終焉であり、太古から人間がそのために苦闘してきたものすべての終末だった。わずか数日のあいだに、人類は未来を永遠に失ってしまったのだ。なぜなら子供たちを奪われると、どんな種族も、たちまち失意のどん底に陥って、生きようとする意志も完全に破壊されてしまうからだ。

 

 アーサー・C・クラーク福島正実訳)『幼年期の終り』からの引用だそうです。

 

森博嗣『ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?』

 今度の人工知能アバターは少年です。POIも、マシンは美女、サマリタンは少年でしたが、どういう意味なんですかね。どうして共通のイメージになるのだろうか。

 前回疑問に感じた「ウォーカロンの脳の作り方」についてこの回で説明がありました。今までもされてた?見落としてた可能性はあります。まあ説明されたところで疑問が完全に解消されたわけではないのですが、設定そのものは理解した。そして、人間でも脳にチップが入っている場合があるからチップの有無だけでは体外的に区別できないというのは私も思っていたし、人間だって作れるだろとも思っていたので、今回のストーリーの根幹部分についてはある程度先読みできました。あとツェリンはめちゃくちゃクラシカルな思考の持ち主だなと思いながら読んでいたのですが(「女性に年齢を訊ねるな」的発言、「人間とウォーカロンを識別するテストを実の子に行うのは残酷だ」発言、「一緒にお酒を飲みたい」発言など、200年後の人間とは思えなかった)そのように描写されている理由も最後はっきりしたし、今回の話は個人的にはわりとすっきり読めました。ていうか分かりやすかったですよね、今回は。人間の親子の話だったし。Wシリーズで初めて普通のミステリかもと思いながら読みました。

 でも今回もさぁ、仮に近親交配があったとして、人工細胞を作れる時代に一体何が問題なのだ?そういう遺伝子は排除して交配すればいいじゃない。そして人工細胞で人間作れるのに生殖ができないという理屈が未だによく分からない。むしろそこまでくると本当に、生殖に拘る理由も分からん。なし崩し的に「ナチュラルな生殖が無理なら遺伝子交配で理想の赤ちゃん作ろう!」ってことになりそうだなぁ、現実だったら。やっぱり子供の産まれない世界に人間は耐えられないのでは、と思う反面、でも現存する人が基本若いままで死なない世界だったら子供産まれなくても仕方ないかってなるのかなという気持ちもある。うーん、けど、見た目若くても思想は老いるわけだしなぁ。やっぱり「若い風」欲しいってなりそうだなぁ。そのあたりは、永遠に若いまま生きられないので想像が難しいです。面白い世界観だよなとは本当に思います。

 ただ一点とても気になったのが、基本知的エリートしか登場しない世界観なので、作中で「感情や意識を持つ人工知能は生命ではないのか」「いったい何が人間なのか」という問いが繰り返されますが、人間であるかどうかは感情や意識の有無とは無関係です。私はどうしても、こういう、知的エリートの形而上的哲学に我慢ならない。裏を返せば「感情や意識を持たなければ人間ではない」ということになるじゃん。そんなことはあり得ません。「人工知能に対して、一般的に「人間性」という言葉で説明される類の性質を当てはめることができるか」という限局的な問いだったら分かるのですが。

 最後、オチが面白かったです。『論文捏造』(村松秀)みたいというか、タイトルがネタバレじゃねえか。

 

森博嗣『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』

 今回、「頭部を移植することは日本では今も禁止されている」という台詞が出てきて、禁止されるってことはできるんじゃん!ってなった。えー、だったら例の「脳だけになったウォーカロン」だって新しいボディ好き放題手に入れられるのでは。日本じゃないし。

 あと今回はクロスオーバーネタが多すぎて、ぶっちゃけだんだん嫌になってきた。だって言ってみれば内輪ネタだろ…。まあ森博嗣作品なのでこうなるのは分かってて読み始めたのはありますけど…。血か死か無かの意味もよく分かんなかったし。逆再生は分かったけど、そうじゃなく、

 

「君に与えられるのは、三つのどれかな?」ヴォッシュがきく。

「死」ガミラは即答した。

 裁判での判決は、無期懲役だったはず。死刑ではない。

「イマンが欲しがったものは?」僕は、なんとなくそれが知りたくなった。

 ガミラは、僕を睨んだまま視線を固定した。

 呼吸も止まっているのでは、と思えるほど動かなかった。

「血」ガミラは、小声でその言葉を絞り出した。

 

このくだりの意味がよく分からない。生きている人間が「血」で、死んだ人間が「死」で、死んだコンピューターが「無」?章タイトルが「血を選ぶ」「死を選ぶ」「無を選ぶ」「選ばない」の4つで、出てくるピラミッドも第一象限(普通)、第二象限(リバース)、第三象限(ネガティヴ)の3つで第四象限がない、とされていることから、4つ目の選択肢「生きたコンピューター」が隠されているということなのかなぁと想像したりした。でも本当はそんなふわっとじゃなくてもっと具体的な意味があるのだろうと思っていたのですが、結局よく分からず…。私の読解力の問題か?それとも後で分かるのか。

 

 最後に、いつも設定にごちゃごちゃ文句言いながら読んではいますが、森博嗣の文体が好きです。

 

 最後のドアを抜けて屋外に出た。ガードマンが、こちらを睨んでいる。ニュークリアの敷地内は、人工的な庭園で、緩やかな起伏の地形は、まるでスプラインした曲面のように滑らかだ。「数学的秩序」というタイトルのアート作品と見ることもできる。

 

「スプラインした曲面のように」とか「「数学的秩序」というタイトルのアート作品と見ることもできる。」なんて文章は普通は書けないなぁ、と思います。

 あとはハギリ博士とウグイの薄っすらロマンスっぽい展開も見どころなのかな。そこは萌えなくもないです。

 

森博嗣『天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?』

 ここにきてようやく

 

「既にそんな数ではない、ということなんじゃないかな。たとえば、私の判別システムに測定誤差が生じるのは、もしかしてウォーカロンの一部が人間なのかもしれない。その可能性を、私は以前から疑っている。おおっぴらに口では言えないし、確かめることもできない」

 

と言い出しましたが、そんなことこっちだって1巻からずっと思ってたよ!!これが1巻から抱いていた「信用できない語り手」ものという印象の正体だったのか。だいたい、おしゃべりをしてその内容で識別するなんてそこだけ妙にクラシカルで他の設定と技術的に浮いてるんだよな。あと、生殖に拘る理由も分かんないしウォーカロンの脳が後付け作成ならウォーカロンの脳をポスト・インストールする前の人間売れるだろと思ってたけど実際そんな感じの流れでした。遺伝子が適さない…とか前に言ってましたが適する遺伝子なんて選び放題だろうし。

 私は人工知能が理性的で合理的であるという考えには常に懐疑的です。オンライン上の全ての情報を持っているとしても、要は人間が入力・出力したデータを学ぶわけだから理性的で合理的にはならないんじゃないかなぁ。「ゴミを入れてゴミを吐く」って言うじゃん。オンライン上のデータなんて(このブログも含めて)9割くらいゴミではないか。正確さより刺激や楽しさが優先されるコンテンツも多いわけだし。しかもデジタルデータは膨大とはいえ、過去から何十億年と存在しつづけているアナログデータ全てから考えるとごく一部でかつとても偏った、先進国のしかも都市部のものがメインでしょ。明らかに超バイアスかかってます。そもそも世の中には正解のない問いの方が多いのだから、前提条件が間違っていた場合今までのアルゴリズムは全く役に立たないわけだし(今回もそういう話だった)、現時点での「正解」を根拠にした合理的判断は全く意味がない、というか意味が全くなくなる場合が往々にしてあるのですよね。まあ200年後はどうなっているか分かりません。人工知能が回答ではなく問題を提起するようになんのかな。でも人工知能が問題と認識するものと人間がそう思うものが同じかは分からん。

 今回はキガタが母校のために戦う若い女の子みたいでぐっときました。ハギリ博士が、ウグイが宇宙に行くと言った時は猛反対しておいてキガタの時は反対しなかったのはどうしてかなと思いました。ウグイは人間でキガタはウォーカロンだから?ウグイの成功率よりキガタの成功率が高かったから?それともウグイが好きだから?

 

森博嗣『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』

 今さら「遺伝子のデザインは倫理的に問題が…」みたいなこと言ってんのおかしくないか。はじめからみんな100%デザインされてる世界観としか思えないよ…。そうじゃなかったらちょっと細胞取り換えて若返り&永遠の命とか不可能だろ…。もともと人工細胞で顔かたちなど変え放題の設定なのに遺伝子デザインに何の問題があるのか全く分からん。なんかどうもちぐはぐな印象が最後まで拭えないシリーズでした。だって今回のエピソード、ハギリ博士が拉致されるだろ…ってのははっきり言って誰にだって分かる感じの流れなのにハギリ博士もウグイも気づかないし、その後のペガサスっぽい少年ロボットの説明も明らかに辻褄合ってないのに2人とも気づかないし、そもそも人工知能なら合理的発想をする、総合的判断で人間の命を奪うこともある、って考え自体がマジで無理。人間に殺されるのは許せなくても人工知能に殺されるなら合理的だからOKなんですか?じゃあホロコーストとか、植松被告の事件とかも発案者が人工知能だったら「じゃあOK」ってなんの?そういうの、シンプルにバカだとしか思えない。ていうか合理的であることの価値なんて、A地点からB地点へ最短で移動できるくらいしかないと思うのですが。途中の景色も見ず、休憩も取らず、食事もせず、トイレにも行かない最短ルートを提示されました!ってくらいじゃん、そんなの。まあ「最短ルートを行くのにこいつ邪魔だからとりあえず殺しとこ」って発想はめちゃくちゃAIっぽいですが(実際そういうシミュレーションを読んだことがある)、200年経ってもそんなもんなのか、という疑問もある。あと作中で「人間が生きているのはエネルギィの無駄だから人間を減らす方向に向かうのでは」みたいに言われてるけど、「エネルギィの最小化」が目的であれば、最も合理的に思考するなら太陽系爆発させて~THE END~てことにならん?カート・ヴォネガットも言ってたじゃん。「わたしは自分の死についてかんがえるとき、自分の子孫や作品などが永久に残ることを心の慰めにはしない。ちょっとでも理性のある人ならすべて、やがてこの太陽系全体がセルロイド製のカラーみたいに燃え上がってしまうことを知っている。」って。もしちょっとでも理性のある存在が永遠を見据えてシミュレーションするのなら、永遠の前では一日も50億年も等価ですよね。どうシミュレーションしてもどうせいつか太陽系消滅するんだし、それが最短距離じゃない?なぜ一部の人間および人工知能が生き残っている必要がある?「共通思考」という存在が生き残る意義って一体何?

 うーん、結局私の中で森博嗣作品はS&Mシリーズとスカイ・クロラシリーズが一番で、他はそのインパクトを超えられないような気がする。多分、どんどんシリーズがクロスオーバーしすぎてて解決そのものが投げられてるせいもあると思う。今回Wシリーズ最後まで読んだけど、解決されない謎が多すぎて、これは「次回に続く」パターンなのか(WWシリーズなるものが続いているらしいので)、それとも「他シリーズとのクロスオーバーで回収されます」パターンなのか、それとも「謎は結局解けません」パターンなのかすら分からないもん。別に、作中で謎が解けないこと自体はいいんです。そもそもミステリではないし、リドルストーリーとして納得できる。でもリドルストーリーであるかどうかさえ分からないのはモヤっとする。

 

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』11巻

 いつも同じ巻だけずっと読み続けてます。本編なかなか読めなくて…。てかハコガクに感情移入しちゃって読むのきついんだよな。本編は1年目で終わってたらマジで神作だったのにと思う。2年以降続けるつもりだったら1年目は普通に真波に勝たせとけよ…と思う。小野田くんが超人すぎて主人公サイドに感情移入できなくなるじゃん…。キャラとしては好きなんですけど、チートすぎんかって思うのですよ。2年目は手嶋が盛られ過ぎて(すでに凡人じゃなくね?)やっぱり感情移入できなくなったしさ…。この人もキャラとしては好きなんですけど。

 この巻では東堂は盾崎先輩に負けちゃうんですが、メンツ見たらそりゃ負けるよなと思うんでむしろ勝ってくれなくてよかったくらいです。最後苦しそうだったもんね。巻ちゃんいたら違ってたんでしょう、多分。でも田所と修作のアシスト燃えたんで私的にはかなり好きなレースでした。負けてもこんなに「よかったなぁ」って思える試合描けるのに本編はなぜ…。いや、むしろ、東堂が「主役は遅れて登場する」と言った通り、主役側が最初負けるくらいがセオリーなのでは。実は本編の主役は真波なのか。3年目で満を持して小野田を破るのか?そんなことってあるんでしょうか。。やっぱ主役が小野田だと思うから、3年目には勝ってくれると思うから、1年目、2年目は負けても成長を信じて感情移入して読めるのではないの?1年目2年目でも勝ちまくっちゃったら読むのきついと思うのは私だけではないと思うのですが。

 オタクなんでウザ語りしちゃうんですが、旬じゃなくてそこそこ前に流行ったジャンルにハマるタイプだしXもやってないし(オタ垢はない)壁打ちすぎるのが寂しいな。前回書きまくったイメソンの話も誰とも共有できないもんな。でも仮にXとかで呟いたとして、Xはスピード速いし、そんな2カ月も前に終わったコラボの話されてもって感じですよね。GleeとかPOIの感想も何十万字も独り言言ってたくらいなのでまあ基本的には壁打ち平気なんですけど。そういえば『ハイキュー!!』(古舘春一)にはちょっと興味あるんですが自分のパターンからすると10年後とかに読んでハマって壁打ち感想書いてるかもしれん。

 

万城目学プリンセス・トヨトミ

 うーん。『鴨川ホルモー』と『鹿男あをによし』に比べるとイマイチでした。設定読むのが面倒だったのと、やっぱ予算五億っていう生々しさがちょっとイヤってのがある。こんな男の自己満みたいなものに国家予算使ってんのか…っていうので我に返るというか…。まあ政治そのものがほぼ男の自己満ではと言われれば反論しようもないのですが…。鳥居と旭のやり取りはハラスメントそのものだし(同僚を下の名前で呼び捨てとか絶対ナシでしょ)、ヤクザが中学生に土下座しないだろーとか、なんか我に返るシーンが多すぎるんですよね…。ディティールはそれなりに面白いのですが。ドラマ版は性別変更されてるそうなのですが、じゃあオチも違うのかな。

 

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』1, 7, 8巻

 1,8巻は巻島&東堂の話で、7巻は洋南と明早の大学話。

 上に書いた本編への愚痴とちょっと被るんですが、本編の1年目って主役が小野田で1年生を中心に展開してて、(田所は2年生と鳴子担当だからちょっと置いておいて)3年は小野田のメンター巻島とキャプテン金城がいて、敵の箱学はそれに対となるキャラクターとして真波、東堂、福富がデザインされてる作りになってると思うんですよね。その中で福富に関しては荒北や新開との絡みもあってキャラ立ちしてるので違和感ないのですが、真波と東堂はそれぞれ小野田、巻島のライバルって感じのキャラ感でしかない。特に東堂が、あからさまに巻島と対比するキャラクターとして作られてて(身長体重など体格はほぼ一緒で、顔の作りやクライムスタイル、性格など全てが真逆)、他の3年生との絡みも少ないし、はっきり言って本編の1年目インハイ終了時点までは「巻ちゃんのライバル」以上のキャラ付けは特にない印象。スペバイ1巻もその2人の対照的な過去が描かれます。孤独に努力して自分独自のスタイルを確立しのし上がる巻島に対し、友人に誘われてしぶしぶ出たレースでいきなり完璧なフォームで走り優勝する東堂。でもここで更に疑問が生じないか?東堂は中2のド初心者の時点で中3の経験者より遥かに速くてすでに「山神」と呼ばれてるのに、高1、高2のインハイに出てないんですよ?箱学の3年生について、福富は2年からインハイ出てるし、新開も選ばれたけど出られなかった事情が説明されてるし、荒北はそれこそ初心者で荒れてた時代から努力でのしあがった経緯があるから高3で初めて出場するのは分かるけど、東堂については全然分からないし説明もない。てか本編から推測すると高2の時点で明らかに3年の誰よりも速い設定なのに不自然すぎる。で、そんなエースクライマーですら成し遂げられなかった、高1でのインハイ出場権を持ってるのが真波じゃん。つまり巻島、東堂、真波の中で最もポテンシャル高いのは設定的に真波なはず。それなのに真波が初心者の小野田に負けるっていうのが、バランス悪すぎじゃね?って思うのよ。スペバイ1巻読むと余計にそう思う。本編との整合性取れてなくね?この東堂を上回るポテンシャルを持つはずの真波が小野田に負けるか?って。なんか真波と東堂の設定が「ライバルキャラ」として後付けすぎる感あるんだよな。キャラ贔屓とかじゃなくストーリーのバランス的な問題として、絶対1年目は真波に勝ってほしかったよ…。しかも圧勝してほしかった。真波は小野田や手嶋をはるかに上回る敵キャラであってほしかったんですよ。じゃないとパワーバランスの辻褄合わないし、ストーリーも小野田じゃなくて真波の成長話になっちゃうじゃん…。

 まあ色々書いたのですがスペバイはとても好きです。特に大学編が好きなので7巻めっちゃ好き。荒北が福富を卒業して金城と友達やってんのが面白い。荒北が待宮と偶然会って、部室に戻ったら金城がいなくて、「お前はいろよ!」「一体何を怒られてるんだ」ってシーンめっちゃ好き。野獣荒北が金城に飼いならされてんのが面白すぎ。あと原作者が「基本的に恋愛は描かない」と言ってる弱ペダの唯一の恋愛担当が闘犬待宮なのも笑えます。佳奈ちゃんかわいいし、めっちゃ尻に敷かれてるし。(でも真波と委員長のラブも見たいなーとは思う。絵に描いたような幼馴染ヒロインおるし、やっぱ主役は真波なのか…)明早編では福富&新開の幼馴染コンビが安定感あってよいし(何があっても信頼し合う感がよい)、石垣と新開のエピソード泣くじゃん…。そりゃ仲良くなるよね。私も大学で一人暮らし始めてスポーツ系サークル入ってたのでその頃のこと思い出しました。

 

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる

 相変わらずの疾走感です。この中では、アダム(男)たちがイブ(女)たちのろっ骨を握って戦いに向かわせるエピソードが面白かった。基本的には何らかの理由で好きな女を失う男たちの話なのですが、斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』の「他者の死を、自分の喪失感、悲しみのありがたみとして消費してよいのか、という激しい葛藤」を思い起こさせられました。あとは『桜前線開架宣言』(山田航)で知った、吉田隼人の『忘却のための試論』を思い出した。この歌集読んでみたい気持ちもあります。

 ところで若い女性の恋人を失う男の話って時々見る気がするけど、(戦争モノ以外で)若い男性の恋人を失う女の話って今ちょっと思い浮かばないな。有名どころありますか?

 

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』9,12巻

 9巻前半はファミレスで大学生がグダグダとくだらないおしゃべりをするだけなのですが、とても楽しいです。大学生っぽい。福富は何で荒北じゃなく金城に電話するんだー!と思ったけどね。車の持ち主だから?荒北が福富と金城の前ではおとなしいのがめちゃかわいいです。他がキャラ濃すぎて押されてる石垣もかわいいな。ほんとに自分の大学生だった時のこと思い出すので読んでて微笑ましいというか…。ファミレスとかファストフードとか食べ放題とか行ってくだらないおしゃべりしてたなーと。12巻は更に東堂と田所も加わって楽しいのですが、こっちは東堂と、ひたすら東堂に絡み続ける荒北がメインですかね。荒北はレース中も絡んでましたね。東堂は福富と話すの楽しそうでした。大学時代懐かしいなー。

 9巻後半は東堂と修作の中3時代のエピソードです。何でこの中学生があの高校生になるのか理解に苦しむな…。「尽八が勝つとこ見たい」「女の子にモテたい」という修作の願望を叶えようとしてるのか?東堂別に女好きには見えないんですよね。でもまあそれは少年漫画という媒体でお出しできるものはここまでというメタ的な理由かもしれないので(だってキャラソンORANGE RANGEイケナイ太陽』だしさぁ…。しつこいけど…)、裏ではあれこれやってるものと解釈するわ…。まあそれはともかく、平坦レースでの戦略的なとこ見れてよかったです。頭が切れると評されるのはこういう意味なのね。でそれを感覚的にやるのが荒北なわけだ。

 

・ラヴィ・ティドハー(茂木健訳)『完璧な夏の日』上下

 BL×SFの特集でおすすめされていた本。超能力者たちが暗躍するWWⅡのSFです。まあ、とはいえほぼイギリス、アメリカ、ソ連ナチスドイツあたりの話なので、出てくる超能力者のほぼ全員が白人です。黒人と東欧人がちょっといるくらいで、アジア人はいない(ベトナム戦争の時、アジアにもいるって会話で出てくるくらい)。だいたいみんな自分の能力名で呼ばれてて、フォッグという霧使いとその相棒オブリヴィオン、彼らの上司オールドマンがメインキャラです。彼らは皆イギリスのMI6みたいな感じの組織の人間です。しかし、ナチ占領下のパリでフォッグがナチ幹部の娘クララ、別名ゾマーターク(夏の日)と出会ってしまい…という話。もちろん「ゾマーターク」も能力名です。2人の出会いのシーンとクララの能力を見て、ああ、これは虜になるな…と思ってしまいとても切なかった。フォッグはクララを愛するあまり、仲間の仇を助けたり(そしてそいつがまた別の仲間を殺したり)、オブリヴィオンに情報屋を殺させたり、最終的にはオールドマンも殺し、ありとあらゆる犠牲を払ってクララのもとへ向かいます。

 で、なんでBL×SFかというと、オブリヴィオンがゲイで、フォッグを愛してるんですよね。ストーリーの途中でアラン・チューリングと何かありそうな空気を漂わせたり(オブリヴィオンとチューリングの微妙な空気感にフォッグが嫉妬したり)、寝ている相手が男だと匂わせたり、じわじわとそういう雰囲気が描かれます。読みながらオブリヴィオンがフォッグを愛していることは分かるんですが、最後「君は一度もわたしの気持ちを確かめようとしなかった」というオブリヴィオンに対しフォッグは「確かめる必要なんか、まったくなかったからだ」と返します。うわー、残酷やん。。オブリヴィオンはフォッグをクララのもとへ送り出すのを助けながら、「行くな」と懇願します。でもフォッグは行ってしまう。終わり方超切ないです。

 どうしてオブリヴィオンをゲイの男性に設定したのだろうと最初は思いました。だって、フォッグはゲイじゃないわけだから、そこでオブリヴィオンを選ぶってことはなくない?愛する女性よりも友情を取るってことある?オブリヴィオンは初めから諦めてるとこあるじゃん。どれほど愛しても報われないって。相棒が女だったらまた違ってたと思うんだよなぁ。そうだったら、彼女にだって恋愛の可能性はあったわけじゃん。ずっとそばにいて、一緒に戦ってきて、フォッグを愛してて、彼のために何もかもしてきて、それでもフォッグは彼女よりもゾマーターク・クララを選ぶのか、という。そっちの方がセクシャリティという壁がない分より緊張感があったのでは…と最初は思ったんです。でもオブリヴィオンがゲイだから、彼の孤独が引き立つんですよね。それはとても分かる。もし相棒が女性だったら愛が返ってくる可能性があると思っちゃうけど、オブリヴィオンの場合はどれほど愛して尽くしても報われないと分かってて全てを捧げる姿が美しいんですよね。そしてだからこそ超切ない終わり方なんだな。

 というか、ラストシーンは、オブリヴィオンを選ぶかクララを選ぶか、という単純な二択ではないんですよね、実際は。いわゆるセカイ系というか、世界の秩序を正すか、好きな女を選ぶか、みたいな選択を迫られるわけです。そこでフォッグは仲間全員を見捨ててクララを選ぶわけ。オブリヴィオンや仲間たちを永遠の孤独に置き去りにして、自分は「完璧な夏の日」の中でクララと共に生きることを選ぶ終わり方なんです。でも、儚い夏の一日だからこそ「完璧」なのでは、と思ってしまうよね。本当に永遠に「完璧な夏の日」にいられるのだろうか。愛してくれた相棒や仲間を見捨ててすごす永遠の夏の日は、本当に完璧なものなのか。もし相棒が女性だったら、単に彼女を選ぶかクララを選ぶかみたいに見えちゃうから、やっぱりオブリヴィオンでよかったんだと思う。そして恋愛か否かに関わらず、やっぱオブリヴィオンに感情移入してしまうよなぁと思いました。