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読書日記 2024年1月10-16日

読書日記 2024年1月10-16日

・青崎有吾『図書館の殺人』

・青崎有吾『11文字の檻 青崎有吾短編集』

池辺葵プリンセスメゾン』1-6巻

・アンソロジー『平成ストライク』

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』10-12巻

・蛇龍どくろ『ミホとユーコ』

・蛇龍どくろ『シュガーミルク

半藤一利『歴史と人生』

・ライリー・ハート『ボーイフレンドをきわめてみれば』

・市川沙央『ハンチバック』

辺見庸『月』

冨樫義博『HUNTERxHUNTER』1-16巻

 

以下コメント・ネタバレあり

 

・青崎有吾『図書館の殺人』

・青崎有吾『11文字の檻 青崎有吾短編集』

 『図書館』は『体育館』『水族館』に比べるといまいちでした。本格モノって時々ロジック重視すぎて逆になんじゃそりゃ、っていうパターンがあるのですが、そんな感じ。このシリーズは「読者への挑戦」が面白いので挑戦してみようかな?とか思ったのですが、個人的には『図書館』でやるのはあまりお勧めしません。

 短編集の方は、「加速してゆく」が一番好きです。これはとてもよかったです。ちょっと塩田武士テイストかもしれない。あと「11文字の檻」もよかった。「飽くまで」はオチが面白かったです。他の、キャラがラノベすぎるやつは私には合わない感じする。「恋澤姉妹」は平山夢明の「クレイジーハニー」思い出した。これは「彼女。」という百合アンソロ寄稿作品らしいのですが、やっぱ私の求める百合とはちょっと違うんだよなー。「クレープまでは終わらせない」もちょっと違う。

 

池辺葵プリンセスメゾン』1-6巻

 思い立って再読。基本「いい人」しか出てこない優しい話です。

 

・アンソロジー『平成ストライク』

 青崎有吾目当てで買ったのですが、「加速してゆく」は『11文字の檻』に入ってたわ。平成って猥雑だなーと思いながら読んだけど、切り取り方次第でどの時代もそんなもんかもしれません。結局「加速してゆく」が一番面白かったのですが、遊井かなめ「bye bye blackbird...」もわりと好きでした。白井智之「ラビットボールの切断」は下品ですが面白く、天祢涼「From The New World」も悪くないです。千澤のり子「半分オトナ」はオチがなー。主人公が○○だということは読んでいれば普通に分かるので(というか分かるように書いてるよね?)、なぜそれをオチに持ってきた?っていう。

 

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

 歌集。時々読みます。詞書が多いので散文的に読めますが、そう読まれても構わないかどうかは分かりません。

 

渡辺航弱虫ペダル SPARE BIKE』10-12巻

 また読んでる。毎週読みたいくらいです。東堂と田所が推しなので、10-12巻は私得すぎます。この2人同じ大学とかドリーム過ぎっショ。筑波山レースは神がかった面白さでした。次は東堂が田所のアシストするスプリントレース読みたいなー。てかずっと箱学旧3年4人の中では荒北がツッコミかと思ってましたが、意外に東堂でしたね。荒北が悪ノリし、新開はそれに乗っかり、福富は天然すぎてスルー、東堂が突っ込んでたのか…。筑士波メンバーがいなかったファミレスではツッコミ不在だったのにとんかつ屋では東堂がツッコミ続けてて笑った。荒北は福富と金城には従順なのに新開と東堂にはウザ絡みしててこんな子だったんかと思いました。とても好きです。そして東堂がオレ様モードになると律義に突っ込んでくれんのかわいい。新開がこのくだり完スルーすんのも好き。スペバイ語り始めると長くなりすぎるのでこの辺で。

 

・蛇龍どくろ『ミホとユーコ』

・蛇龍どくろ『シュガーミルク

 百合読みたくなって『ミホとユーコ』再読したけどこれもなんか違う。『シュガーミルク』(こっちはBL)は表題作の「MILK」と「SUGAR」が好きです。

 

半藤一利『歴史と人生』

 色々な小ネタが詰まった本。小林一茶

 

世の中は地獄の上の花見かな

 

という俳句が好きでした。あとは山口誓子

 

海に出て木枯帰るところなし

 

も。これは特攻隊について詠んだ句で、当時はだれもそうと気づかなかったのだとか。

 

・ライリー・ハート『ボーイフレンドをきわめてみれば』

 今、自閉スペクトラム症とか発達障害のことを「神経多様性者」(ニューロダイバーシティ)って言うんですね。嘘がつけない男の人が主人公のM/Mで、洋モノであることも相まって非常にオープンなので、あけすけでありながらさわやかな話でした。ただ最近発達障害系の人(超天才だけど率直過ぎて人づきあいがうまくない)が理解ある相手と出会って恋人 or 親友になり…みたいな話によく遭遇するのでテンプレ化している感は否めません。はやってんの?

 

・市川沙央『ハンチバック』

 何かでおすすめされていたので読んでみた。作者が当事者であるとプロフィールで読んで、当事者が書く小説、ということを考えました。多分又吉直樹の『火花』とかもそのたぐいなんでしょうが。こういう性に関するルサンチマン満ち溢れる文章ってどちらかというと好きじゃないのですが、当事者と言われると納得してしまう自分もいて、でも作者がそうだからって読み方変えるのどうなの、って思う自分もいて、複雑です。まあ、納得したとしても、誰が書いたものであってもこういう発想が好きではないことには変わりありませんが(だって私は中絶するために妊娠とかしたくないので)。

 でも、

 

息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に。

 

とか、

 

 厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負担をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いにいけること、――5つの条件を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

 

とか、こういうくだりにはとても胸打たれたし、変な言い方ですがぐっときました。

 

辺見庸『月』

 辺見庸は昔から『もの食う人びと』が好きで多分10回以上読んでると思うけど、他の本を読んだことが全然なかったので、ずっとジャーナリストだと思っていたのですが、詩人と知って驚きました。この本は小説ですが、ある意味でとても詩です。

 私は、この本の解説にあるような、

 

さとくんが「あんたは、なんなんだい?」ときーちゃんに問うたおかげで、同時に僕の存在までもが一気に危険にさらされる。「僕はきーちゃんよりはいくらかマシだ」というような根拠のない優越感は、素知らぬ顔をしながらも確実に僕の中に棲みついている。だが、そんな愚かな優越感は見事に一瞬で破壊され、僕はきーちゃんと同じようにその存在価値を問われ続ける。

 

といったような自分の存在意義についてのコペルニクス的転換というか、そういうものは感じなかった。なぜなら、自分が「きーちゃん」と何も違わない、ということは理性でも感情でも理解しているからです。きれいごととかじゃなく、優生思想の線引きはいつだって恣意的で、私はいつだって「きーちゃん」と同じ側であり得るだろう。アンネ・フランクやヴィクトール・E・フランクルですら絶滅収容所に送られたというのに、一体誰が自分は違うなんて思える?ただ、私は糞尿を投げつけられたこともなければ、それを自分になすりつけた人に触れたこともない、ということを考えました。

 上の『ハンチバック』もそうですが、最近「当事者性」について考えさせられることが多いです。当事者でなければ語れないのか。かける言葉はないのか。私は何を思えばいいんだろう。誰が他人に「あなた、こころ、ございませんよね?」なんて聞けるんだろう。一体誰が、他人にこころがあるかどうかなんて決められるんだろう。

 

 ちなみにですが、「当事者性」については、アンソニーホロヴィッツが『ナイフをひねれば』で

 

「じゃ、理解しようと努めることさえ許されないというわけか? そうなったら、いったいわたしに何が書ける? さっきの話では、アフメトやプラナフについても書いてはいけないということだったな。それなら、モーリーンやスカイのことも書けない……どちらも女性だからね! ラッキーのことも書けない、こいつは犬なんだから! きみの言うことを聞いていたら、結局は自分自身のことしか書けないじゃないか! 中年の白人男性作家に殺される中年の白人男性作家の本を、中年の白人男性作家が書きあげる、ってわけだ!」

 

って書いてたのがとても印象に残っています。まあそれ言ったら辺見庸だって当事者ではないわけだし、当事者でなくても、辺見庸やアンソニーホロヴィッツほどの強い言葉を持たなくても、自分なりに考えてみることは悪いことじゃないと思った。

 

冨樫義博『HUNTERxHUNTER』1-16巻

 いつだったかセールで大人買いして積んでたのでぼちぼち読んでます。キャラ萌えがないのでとても読みやすいですが、久しぶりに読み返して、こんな感じだったっけ?ってなってる。