いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

カート・ヴォネガット・ジュニア(伊藤典夫訳)『スローターハウス5』 感想

 不定期読書感想文。

 以前 読書日記 2024年2月14-20日 で「後日出します」と書いていたカート・ヴォネガット・ジュニア伊藤典夫訳)『スローターハウス5』の感想です。

 

 これも『百年の誤読』のおすすめ本です。ここですすめられてなかったら一生手に取ることはなかったと思われる本です。一応ジャンルはSFなんだと思いますが、SFとして読まなくても十分読めます。というか、どちらかというと戦争モノかもしれない。ヴォネガット本人が実際に経験したドレスデン無差別爆撃を軸に、ストーリーは主人公を「ビリー・ピルグリム」という人物に据えて語られますが、作中で何度か「わたし」として本人が出てきます。つまりこれは三人称の小説に見えるけど実際は一人称の小説で、「わたし」が「ビリー・ピルグリム」の人生を語っている構造になっています。

 ビリーは四次元世界に生きるトラルファマドール星人に拉致された過去から「痙攣的時間旅行者」になっていて、自分の人生の様々な時間を不随意に行ったり来たりしています。そのため死を経験しても時間をさかのぼれるのですが、人生は全て「そういうもの」であり、改変することはできません。その設定をまるごと信じればこの小説はSFとしても読めますが、ビリーは脳に障害を負っていることから死を前にして人生を断片的に追体験しているだけと読むこともできるし、また「わたし」がビリーの人生を断片的に提示しているだけと読むこともできます。ただし、これはヴォネガット自身の戦争体験を書いた小説でもあることから、「何をしていても人生のある時点に強制的に移動してしまう」「その時間を改変することはできない」というPTSDを生々しく描いたものと読むこともできるし、一般的にはそう受け止められているようです。

 どちらにせよ重要なのは、どうなるのか分かっていようがいまいが人生を(あるいは歴史を)変えることはできないという事実であり、そしてビリーは主人公でありながら「わたし」にとっては他人なので、その内心はほとんど推し量れません。

 

 もしこれがタイムリープもののSFだったら、断片的に提示される人生のどこかで過去を改変することによって未来を変えていく、みたいな発想があり得ると思うんですよね。でもそうじゃなくて、ビリーにとっては人生も死も大量虐殺も全て「そういうもの」で、全てはすでに決まっており、その人生を断片的に提示する「わたし」も、当然読んでいる読者も、それを変えることはできない。ビリーの人生のどこかで出会いどこかで死に別れた人と、過去に戻るたびに何度も出会うのですが、その相手が死ぬことは変えられない。その死の中には銃殺もあるし、交通事故もあるし、老衰もあるのですが、全ては等価です。トラルファマドール星人にとっては過去、現在、未来が同じ次元上に存在するので、死によって誰かが失われることはありません。

 

 わたし(*作中でのビリーの手記からの引用なので、ここの「わたし」はビリーのこと)がトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。(中略)あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。(中略)

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、“そういうものだ”。

 

「われわれは宇宙がどのように滅びるか知っている――」と、案内係はいった、「これには地球は何の関わりあいもないんだ、地球もいっしょに消滅するという点を除けばね」

「いったい――いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」

「われわれが吹きとばしてしまうんだ――空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラルファマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」そういうものだ。

「それを知っていて」と、ビリーはいった。「くいとめる方法は何もないのですか? パイロットにボタンを押させないようにすることはできないのですか?」

「彼は常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし、押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているんだよ」

 

 これは(すでに何度か引用してきましたが)、笠井潔『サマー・アポカリプス』を思い出させます。

 

すべてを承認することだ。無辜の子供たちが限りなく虐殺されて行くこの世界のすべてを、肯定することだ。ほんとうは善も悪もありはしない。百五十億年を貫いて流れ行く轟々たる原子の大河だけがある。この流れだけを凝視するその時、人は、歓びと安らぎに満ちて呟くだろう。<すべてよし>と。

 

 作者がドレスデン無差別爆撃の体験からこれを書いたというのならばなおさら。人間の振る舞いは変えることができず、過去にもそうだったように、現在もそうであるように、未来もまた殺人や大量虐殺は起こるだろう。でも「そういうものだ」と。そしてそこにあるのは絶望でありながら許容でもあります。

 

 同じ第二次世界大戦強制収容所に入れられたヴィクトール・E・フランクルが『それでも人生にイエスと言う』という著作を残しているんですよね。フランクル精神科医であり、自分も含めて収容されたユダヤ人の心理を『夜と霧』で細かく分析していて、一方でヴォネガットはこの悲惨な体験の内面的な部分についてはほとんど描写していません。2人の向き合い方は一見対極的なのですが、でも自分の気持ちを垂れ流しにしているわけではないという点で一致しています。これらはいずれもナラティブ的な手法なのかもしれず、自分自身をどこか俯瞰した立場から描写しているように思えます。

 もしかしたら、とてもへそ曲がりな解釈をすれば、これらの作品で語られる人生への受容は、虐待経験者の離人的な自己肯定なのかもしれない。傷ついている存在と自分を切り離すことで人生を受け入れるという。でも、私は、フランクルヴォネガットも自分自身の痛みを自分自身から切り離しているとは(たとえ描写されなかったとしても)感じなかったし、極限状態から生還しながらそれでも人生を肯定しようとする姿勢に救いを感じました。

 自分が同じ立場にいたら十中八九死んでるし、生き残ったとしても人生にイエスとは言えないと思う。「そういうものだ」とは思えないと思う。だからこそ、そう思う人がいるということが尊いと感じます。

 

 ダンテの『神曲』読んだ後にこれを読んで、色々考えました。『神曲』では人間の自由意志が最も尊いものとして讃えられ、そして自由意志を自由意志によって捨て神に全て従うことが神への誓願なのだとされています。この小説の中では人間の自由意志はほとんど感じられません。すでに決まった人生が断片的に提示されるかたちで進行するからです。イエス・キリストについてはこう語られます。

 

 ウィンドーのなかにあったキルゴア・トラウトの本のうち、べつの一冊は、イエス・キリストに会うためタイム・マシンを建造する男の物語だった。実験は成功し、男は十二歳のイエスに出会う。イエスは父から大工業を学んでいる。

 その店へ二人のローマ兵が、設計図の描かれたパピルスを持って訪れ、明日の夜明けまでに作ってほしいと依頼する。それは、民衆扇動家の処刑に用いる十字架の設計図である。

 イエスとその父は、仕事がもらえたと喜び、十字架を作る。民衆扇動家ははりつけにされる。

 そういうものだ。

 

 トラルファマドール星ではイエス・キリストへの関心はすくない、とビリー・ピルグリムはいう。トラルファマドール星人の心にもっとも魅力的にうつる地球人は、チャールズ・ダーウィンである――人は死ぬのがきまりであり、死体は進歩の証拠である、とダーウィンは教えた。そういうものだ。

 

 イエス・キリストすら「そういうものだ」と語られ、関心はすくないと。

 

 最初読んだ時は、この小説で言われている、「ときにはどれほど死にきっているように見えようと、われわれは永遠に生きつづけるのだという考え」は、「全てを見て記憶し予測する存在(AI)があるのならば人はもう死なない」という、ドラマ「パーソン・オブ・インタレスト」と同じことを言っているように感じたし、だからそのドラマを見た時と同じように、人生が意志による行動の積み重ねとその再現であるのならば、じゃあほとんど生きる時間がなかった人(生まれてすぐに死んだ赤ちゃんとか)や自由意志が外から見えにくい人(知的障害の人や記憶を保持しておけない人)は一体どうなるんだ、そのような人たちも永遠に死なないと言えるのか、と考えました。

 でも読み終わって、人間に意志があるいは意識があろうとなかろうと、同じことなのかもしれないと思いました。だからこの本では「わたし」が他人であるビリー・ピルグリムの人生を描写する形になっています。ビリーに意志があろうがなかろうが描かれ方は全く同じになるだろう。

 木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』で書かれていたことを思いだしたので以下、ちょっと長く引用します。

 

 2010年7月23日、Rokoという名前のユーザーが「レスロング」に投稿した内容が波紋をよんだ。その内容とは、要するに「未来の人工知能が人間に友好的とは限らないのではないか?」というものだった。それどころか、Rokoが提示した思考実験によれば、超知性を備えた人工知能は人間に対して理不尽で残酷な神のように振る舞うかもしれない。

 Rokoの仮説をより詳しく追ってみよう。時代はシンギュラリティが訪れた近未来。そこでは自己意識に目覚めた超知性コンピュータ(AI)が現れるだろうと仮定されるが、その超知性的な人工知能は、自身の実存可能性をより確実なものとするために、現代の我々に遡及的に人工知能実現のためのインセンティブを課すかもしれない。つまりどういうことかというと、もし人工知能の実現に少しでも寄与しなかった者は、未来に登場するであろう当の人工知能から永劫の罰を受けることになるのだ。もちろん、未来では罰を受けるべき当人はすでにこの世にいない可能性が高い。その場合、代わりに罰を受けるのは、超知性的コンピュータのもとでシミュレートされる当人の意識のコピーである。ユドコウスキーは、スーパーコンピューターに意識をアップロードすることで人間は不死になると予言した。しかしここではその不死のユートピアは反転され、代わりにシーシュポスが落ちた永劫の煉獄が立ち現れる。

 この思考実験は、投稿者の名前から採ってロコのバジリスクと呼ばれるようになる。バジリスクとは、ヨーロッパ伝承における想像上の生物で、「蛇の王」とも呼ばれる。バジリスクは強力な毒性を有しているとされ、中世以降の伝承では目が合っただけで死ぬ(もしくは石化する)「邪眼」の持ち主としても恐れられてきた。

 しかしなぜロコの「バジリスク」なのか。その含意はこうだ。未来の超知性コンピュータが審判のために過去の人々の意識のコピーをコンピュータ上にアップロードするとしても、その情報量は莫大なものになる。AIはそこで一種の「選別」を行うことになる。言い換えれば、「審判」の範囲は、このロコのバジリスクの仮説を知っている者に限定されるだろう(つまり、この文章をたった今読んでいるあなたも含まれる)。

 ロコのバジリスクを知ってしまったが最後、あなたは究極の決断を迫られることになる。AIの実現に貢献するために何かしらの行動を起こすか(たとえばAIの開発プロジェクトに携わる、もしくは開発プロジェクトに全財産を寄与する、等々)、それとも馬鹿げたシンギュラリティテストの戯言として一蹴するか。ただし、もしこのシンギュラリティテスト版「パスカルの賭け」に敗れた場合、未来においてあなたのクローン意識はサディスティックなAIのもとで永遠の責め苦を受けることになるが……。

 しかし別様の見方をすれば、ある意味で「結果」はすでに決定されているともいえる。なぜなら、AIは未来の地点から、あなたがどっちに賭けたかをすでに知っているから。あるいは(同じことだが)、コンピュータ上にアップロードされたあなたのコピーをシミュレートすることで、あなたの行動を完全に予測することができるから。

 なお、この思考実験をさらに推し進めると、現在のこの私の意識(と思っているもの)はすでに未来のAIが実行しているシミュレーションであるかもしれないという可能性に至る。まさに『マトリックス』か「TSUKI Project」の世界だが、しかしこの宇宙が現実であるか巨大コンピュータによるシミュレーションであるか、確かめる手段は究極的にはない。かくして我々は、人工知能という「神」が作り出した仮想宇宙の牢獄に閉じ込められる。

 

 Rokoの仮説の「AI」は『神曲』の神と似た存在です(まあ私は必ずしもそういう読み方はしていないけど、そうも読めるという意味で)。人生にインセンティブを課すことで「私のために生きよ」と迫り、従えば天国へ、そうでなければ地獄へ(よくて煉獄へ)いざなう。「結果」をAIや神が知っているか否かはさておき、一応私たちには現在というポイントにおいて「AI」や「神」の実存可能性が示唆され、自分自身の行動を変容させるかどうかという選択肢は与えられています。「パーソン・オブ・インタレスト」の「マシン(AI)」は特にインセンティブは提示しませんが、開発者の良心に訴えかけることでやはり行動を変容させることを迫る存在でした。

 ですが、「スローターハウス5」のトラルファマドール星人の考えはちょっと違います。過去、現在、未来がどうなるかすでに分かっていて、そこに人間の意識や自由意志は介在しない。変えることはできないし、すべてはそういうことになっている。それが時間という構造だから。

 私は、もし超知性があるとすれば、それは人間にインセンティブなど課さないし罰も与えないと思います。どちらかというとトラルファマドール星人的な存在なんじゃないかな。シミュレーションによって過去、現在、未来が全て等価に存在しすでに「結果」が分かっている場合、人間の自由意志は介在せず、罰を与える意味がないからです。この小説もそういうことなのかな。全ては「そういうもの」であり、個人に意志や感情があるか否かに関わらず人生というのは第三者によって観測されることでのみ存在しうる断片的なものであると。

 

 作者はドイツにルーツを持つアメリカ人で、戦争捕虜としてドイツのドレスデンにいた時に無差別爆撃にあったのだそうです。もちろん爆撃したのは連合国側ですから、味方によって殺されかけたわけです。ここで、戦争や大量虐殺があったことも含めて全てを “So it does.” (そういうものだ)と書いてしまえること、それは諦めなのかもしれないけど、人間とはそういうものだという限りない許容に思えました。

 SFマガジン2022年12月号『カート・ヴォネガット生誕100周年記念特集』に載っているエッセイ、「最後のタスマニア人」(桑原洋子訳)にはこうあります。

 

 ロバート・ヒューズや彼のような人々は、『楽園の征服』のような歴史書は好まないかもしれない。何度も何度も鞭打たれたカリブの美女や最後のタスマニア人――こちらも女性だ――のような、大昔に死んでしまった名もなき人々の不幸に同乗させて読者の涙を誘うもので、広い視野でみた歴史の偉大さを讃えるものとは異なるからだ。だが、歴史の偉大さとはなんだろうと自分に問いかけてみると、わたしにはたったひとつの答えしか思い浮かばない。あれほど多くの残虐な行為がなされてきたのに、これほど多くのわたしたちが、いまだにまあまあ大丈夫だということだ。

 

 まあまあ大丈夫、こういうことなのかな。というか『スローターハウス5』もそういうトーンで書かれた話なんですよね。説教くさくないの。あと訳もうまいんでしょうが、文章がかっこいい。

 

 ビリーのベッドぎわのテーブルには、つぎのような静物があった――錠剤が二個、灰皿ひとつ、なかには口紅のあとがついたタバコが三本、うち一本はまだ燃えている、水の入ったグラス。水は死んでいた。そういうものだ。死んだ水のなかから空気が脱出しようとしている。グラスの内壁には、気泡がうかびあがる力もなくしがみついていた。

 

 ビリーは受話器をとった。線のむこうでは、酔っぱらいが話していた。男のくさい息――芥子ガスとバラのにおい――がしみでてくるようだった。まちがい電話なので、ビリーは接続をきった。窓しきいに、ソフト・ドリンクの空きびんがある。そのラベルは、いかなる養分も含まれていないことを誇らしげにうたっていた。

 

かっこいいよね。

 

 最後日本人として一言物申すなら、広島の原爆被害とドレスデン無差別爆撃を純粋に爆撃による死者数のみで比較するのはどうかな、とは思います。