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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』とサマセット・モーム『月と六ペンス』の感想2

 カズオ・イシグロ土屋政雄訳)『わたしを離さないで』とサマセット・モーム土屋政雄訳)『月と六ペンス』の感想続きです。

 1はこちら

yuifall.hatenablog.com

 以下、ネタバレあるので畳みます。

 

『わたしを離さないで』を読み終わった後うまく消化できなくて、ネット上でいろんなレビューを読みました。その中で、「なぜ彼らはこの運命から逃げ出さないのか」という問いを抱く人が多いということを知りました。私はそのようには一度も思わなかったのでちょっと驚きました。

 おそらくですが、作中設定ではクローン人間たちには通常の人権はなさそうなので、逃げようと仮に思ったとしても戸籍や身分証明書はないし、従って通常の仕事には就けないだろうし、選択肢はなかったのだろうと思います。でもそのことは全然描写されないというか主人公たちはそういうことを考えもしないので、それが逃げ出さないことの理由でないことは明白です。

「なぜ逃げないのか」という疑問を抱かなかった理由が自分でもよく分からず色々考えていて、数日経ってようやく思い当たりました。前回「近代以前の人間の人生と重ねた」みたいに書いていたんですけど、突き詰めてみると「女性の人生」と重ねていたのかなと思います。

 

 歴史的に、男性は女性を同じ人間とは見なしてきませんでした。知的にも肉体的にも劣ったものと見なされ、女性には参政権もなく、教育の機会も男性より与えられず、まあいわば「産む機械」だった。その運命から「なぜ逃げないのか」と現代の私たちが言うのはちょっと違うかなと。

 例えば『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)は大正時代が舞台ですが、メインキャラの一人である風柱、不死川はかなり劣悪な環境で育ってました。当時の発想だと家を継ぐべき立場の長男である彼すら最後「文字は読めるが書けない」ことが明らかになることから、生家は貧乏であること、女性である母親は文字が読めたかどうかも怪しい教育レベルであることが推測されます。夫はDV男で子供が5人も6人もいるんですが、その環境から彼女が「なぜ逃げないのか」と現代の価値観で疑問視するかなぁ。逃げることなど考えたこともないのでは。

 あるいは『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル・ユーゴー)のエポニーヌは、夫と思って愛した男性に結婚前に捨てられて私生児を産み、子供を預けて必死で働くも私生児がいるという噂を立てられてクビになり、その後は子供に送金するために髪や前歯までも売り、最後は娼婦に身を落とした末に亡くなります。この運命から「なぜ逃げないのか」って言うだろうか。

『月と六ペンス』ではストリックランドが「女は愛のことしか頭にない」と罵倒しますが、それは当時の女性にとって男性の愛を得ることはすなわちサバイバルだったからではないのか?教育も社会的地位もなければ、愛しか縋るものはないからでは。その運命からどうやって逃れればいいのだろう。

 生殖によって産まれた人間たちから同じ人間とは見なされず、「臓器を提供する機械」としての運命を背負わされているクローン人間だって彼女たちと同じじゃないか?逃げることなど考えたこともないのでは。そして誰にだってそういう見えない制約、「ガラスの天井」(「ガラスの檻」かな)はあるのではないか。

 

 私はキャシーたちを「普通の人間」のメタファーとして読みましたが、もしキャシーたちが運命から逃れようとあらがう存在として描かれたとすれば、彼らは「普通の人間」のメタファーにはなり得なかっただろうと思います。そう描けばハリウッド映画のスターみたいにはなれたかもしれませんが、それは「わたしたち」の生き様ではない。ここで描かれているのは普通の人間に“ならざるをえない”「わたしたち」の人生です。それは「親ガチャ」とか「格差社会」という言葉でネガティブに語られることもあるでしょうが、一方で「置かれた場所で咲く」とか、『スローターハウス5』で書かれているように “So it does”(そういうものだ)、あるいは笠井潔が『サマー・アポカリプス』で“トゥー・テ・ビアン”(すべてよし)と書いているように、人生への受容として受け止めることもできます。

 キャシーが介護人を降りて提供者としての時へ走り出すラストシーンは、「そういうもの」「すべてよし」「それでも人生にイエスと言う」ということなんじゃないだろうか。短い人生の中で、教育を受け、創造し、人を愛した。子は産まないが、代わりに誰かの命を救って死ぬ。それでよし、そういうものだ、と。それは普通の人間の人生と同じだろう。概ね100年以内に死んで終わることが分かっている短い人生の中で、教育を受け、創造し、他人と関わり、子を産み育て、あるいは(産み育てずとも)誰かの人生を直接的・間接的に支え、社会の中で死ぬ。その運命から逃れようとは思いません。

 

 ネットで感想を色々読んでみて、彼らはなぜ運命に逆らわないのかという点からだけでなく、なぜセックスについて執拗に描写するのかなどなど様々な観点から考察されていてとても面白かったです。神風特攻隊とだぶらせる記述や女性同性愛、フェミニズム、母胎回帰と絡めた考察なんかもありました。『月と六ペンス』の方が男性同性愛の匂わせと解説されているのと比較するとまた興味深いなと思います。

 

 あまり引用しませんでしたが、『わたしを離さないで』も『月と六ペンス』も描写がとても美しい小説でした。『わたしを離さないで』の方は抑えた語り口で淡々と語られ、特にヘールシャムでの生活のシーンが真に迫っていました。本当に、見てきたようにリアルでした。

『月と六ペンス』の方はまず様々なタイプの人間の書き分けに驚きます。また、画家の描いた絵を言葉で描写しているのですが、それがあまりにもすごくて圧倒されました。言葉に色があると思った。ロンドン、パリ、マルセイユタヒチと場所が変わるたびにその土地が鮮やかに描写され、特に後半クライマックスのタヒチのあたりでは描写が濃密でくらくらするほどでした。まあ、タヒチのシーンでは東洋に変なロマン抱きすぎだろ…って思う面も無きにしも非ずでしたけどね(差別意識もあるのかな?)。ラストシーンで再びロンドンに戻ってくる演出は好きでした。

「月」は夢、「六ペンス」は現実であると解説にありましたが、これはタヒチとロンドン、ストリックランドと私、男と女(逆でも)、画家とトレーダー(ストリックランドの元の職業)みたいな対比が作中で多々見られることを反映しているのかもしれません。

 

『わたしを離さないで』と『月と六ペンス』の感想をまとめて書いてきましたが(訳が同じ人でしたね)、ストリックランドとキャシーのどちらが「月」でどちらが「六ペンス」かって考えると、クローン人間であるキャシーの方が感情的に共感できるという意味で「六ペンス」的だなと感じました。でも、どちらも人間的なんだろうとも思います。“ならざるをえないもの”として生きる人間なんだと。