「一首鑑賞」の注意書きです。
203.あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
(永田和弘)
この歌は、いつ知ったかは思い出せません。多分10代の頃からずっと好きでした。今初めて知ったのですが、1975年の歌集『メビウスの地平』掲載作とのことです。魚沼晋太郎が「一首鑑賞」で取り上げていました。
一首は回想からはじまる。
あの胸とは、恋人の胸だろう。
もっと淡い、告げられなかった初恋の相手の胸と読んでもいいが、単なる回想ではなく主人公の現在につながる相手と読んだほうが、一首の魅力がじゅうぶんに引き出される気がする。
とあります。疑わず、相手は妻となった河野裕子だろうと思って読んでいました。
岬は、やはり辿り着けそうにもない遠い場所と読むのが自然な気がします。見えてはいるけれども果てしなく遠いところ。「遠かった」という一言で、「今は遠くはない」ということがまず言いたいんだと思う。今は彼女に触れることをゆるされていると。でもただ恋人になったことを言いたいだけだったら「手」とか「髪」でもよかったのを、「胸」という部分を選んだのがまたいいなと思う。胸に触れる、というのは、精神的に繋がることと肉体をゆるされることの両方を無理なく連想させます。
さらに、「畜生! いつまでおれの少年」という言葉からは、今でも遠く思うことがある、ということが示唆されている。この「遠く」は心理的距離というよりもむしろ憧れに近いものだと思います。今でもどこかで彼女に憧れている。
それにしてもこの歌は1975年ってことは、永田和宏はまだ20代ですね。「いつまでおれの少年」でもまだおかしくはないな。結局、「いつまで」だったのだろう。いまでも、であってほしいと思うのはロマンチストすぎるでしょうか。
実際はやっぱり日常生活の中で相手を遠く思慕し続けるのは難しいように思えます。ここで男性から女性にその想いが詠われることを美しいと感じるのは、やっぱりライフステージで女性は大きく変わらざるを得ないからかなあって思いました。恋人になり、結婚して妻になり、やがて母になった時、老いや日常生活への疲れで彼女はかつての少女ではなくなっているでしょう。でも、彼女の中にまだあの少女だった時の姿を見ることがある。触れられない遠い憧れがまだここにある。そんな風に受け止めたくて、「いまでも」であってほしいなって思うんだよな。
そしてこの歌を読むたびに、河野裕子が乳癌で亡くなったことを思って胸が苦しくなります。
ちなみに上に「髪」だったらと書きましたが、永田和宏は
駆けてくる髪の速度を受けとめてわが胸青き地平をなせり
とも詠んでいます。今度は「わが胸」ですね。この歌はめっちゃ青春だな。先日ジブリの『風立ちぬ』を初めてみたんですが、なんかこの歌のことをちょっと思い出しました。衒いもなく「あなたが好きです」って感じが。
さくらさくら首から落ちていくさくらあなた燃えたわわたしの髪も (yuifall)