『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。
5番目は「門」です。
城門は脚より昏れて夏の馬うなずきながら今日を閉じゆく (梅内美華子)
夕闇にとろりと門は融けはじむ背に膨らみてゆくさくらばな (永田和宏)
梅内の歌は、夏の夕暮れです。日が落ちて、城門の脚の影が伸びていく。門を閉じる係の人が馬に乗った誰かを門の内側に引き入れる時、その馬の脚の影も長く伸びている。馬がうなずきながら門の内側に歩いて行って、ぎいっと門が閉まって、今日一日が終わるんですね。夏だから一日は長かっただろうし、ずっと立っていた人にとってはやっと訪れた安息の時間なのではないか、という感じも受けます。情景のイメージが浮かぶし、解説にもあるように、最後に閉じゆく門に戻ってくる円環構造が美しいなと思いました。
味方チームは
・「城門」のイメージから始まって、「夏の馬」へゆき、また「城」に戻ってくるという、たっぷりとしたイメージを味わわせてくれる(加藤)
・「夏の馬」は「城門」であるとともに、その「城門」を「うなずきながら」くぐってゆく「馬」であるととった。本当によくつながっている(道浦)
・夕方になって門が閉じたという、ただそれだけのことを歌っている。これだけ手が込んでいて、しかも見事な有心の序をみたことがない(奥村)
敵チームは
・「夏」が異物である。「夏の」がなければうまくまとまっていた(三枝)
と言っています。
永田の歌は、最初私は梅内の歌の直後に読んだためか、「とろりと融ける」を「夏の暑さ」みたいに読んでしまっていたのですが、最後「さくらばな」で、違うやん、と。春です。春の夕闇です。つまり、この「門」は夜になると融けてしまうんですね。で、誰も通ることができなくなる。多分自分は門の前に立っていて、背に「さくらばな」が膨らんでいく。だから、門を通れなくなるのをただ見守るしかなかったのではないかと思いながら読みました。何かの心象風景なんだと思うんですよね。通らなくてはならなかった「門」、何かの試練のようなものに、自分は間に合わなかった。で、その自分の背には「さくらばな」が膨らんでいく。この「さくらばな」は何の暗喩なんだろうな。最後闇の中に「さくらばな」の白さだけがふっと浮かび上がるような光景を思い浮かべました。
味方チームは
・自分の前方にある「門」が夕闇に融けこむにつれ、自分の後ろの「さくらばな」の質感が増してゆく。暗色に近い「門」と白い「さくらばな」の対比が面白い。「門」という、そこを通ってどこかへ行くことのできる場所が、夕闇に紛れてしまうという焦燥感と、「さくらばな」が泡立つように増殖していく暗い歓喜の対比も面白い(穂村)
・比喩ではなく、「門」はダリ的に融けてゆく。「さくらばな」も本当に膨らんでゆく。「さくらばな」は殺気のようですらある(吉川)
・春の季節の気配を非常によくつかまえている(三枝)
敵チームは
・決まりすぎである。構図がとてもよくできていて、逆に見え透いている印象(奥村)
・「さくらばな」はない。ただの浮世絵になっている(東)
と言っています。
これも、両方ほとんど瑕疵のない歌だと思いました。議論を読んでいても、褒める方は納得できてもけなす方はうーん??ってなるような発言が多かったし(笑)。勝ち負けをつけるとしたらどうかなぁ。個人的にもどちらも好きなのですが、春の夜の不安な感じをとらえた永田和宏の歌の方が気持ち的にはより共感できるかもしれません。
ずっと考えていたのですが、この歌の美しくも不安な感じ、やっぱり「春の夜」がポイントなんだろうな、と。日本にいると、環境が変わるタイミングって3月~4月の春ですよね。そのころに「さくら」が咲いて散るわけです。だから、目の前で「門」が融けてしまうような焦燥感とか、その後に「さくらばな」が膨らんでいく、美しくも恐ろしいような感じ、そういう心細さと期待みたいなものをすごくうまくとらえた永田和宏の歌に共感できるし、三枝昂之の言うように、梅内美華子の歌はもしかしたら「夏」がそぐわなかったのかなぁって思いました。
超えてきたのは玻璃の門 足底に女たちの血を、破片を踏んで (yuifall)