山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
熊岡悠子
「祭りまで」が町の口ぐせ残暑も家の普請も病のことも
「茅渟(ちぬ)の地車(だんじり)」で第15回歌壇賞を受賞されているそうです。この「祭り」というのは「だんじり」のことみたいです。
これは田舎あるあるですよね。祭りに命賭けてて、稲刈り済むまでは入院もできねえ、みたいなのってありますもん。「町の口ぐせ」って言葉がいいなって思いました。
しかし「残暑」は普通に「ざんしょ」って読んでいいのかな。字足らずですが、それでもこの言葉を選びたかったのは、「祭り」と「夏」が密接に結びついているからなのかなと感じました。今(2020年の半ば頃書いたのですが)コロナでお祭りとか自粛ムードだから、どうなってるのかなぁってふと気になりました。
うづくまる獣のやうな影見せて地車の骨と骨組まれゆく
沖あひに魚の群れる夜明け前一番太鼓町にひびきぬ
こういう歌もいいですね。町への愛情が感じられて、懐かしい気持ちになります。同じ光景ではないのに、自分の中の「田舎」的なものを想起させるパワーがあります。
生まれこしことのうれしさ太陽に向かひて泳ぐひれ透けるまで
解説には
どこに行っても夏と海の気配をどこか探し続けており、「泳ぐ」イメージが印象的なほど繰り返される。おそらくは太陽と水に対する渇望が歌を詠むこの原点にあり、そして原風景として心に秘め続けている岸和田へと帰ってゆくのだろう。(中略)「太陽に向かひて泳ぐ」というのが熊岡の資質を何よりも表現しているだろう。そしてだんじりに盛り上がる夏の岸和田こそが熊岡にとっての「太陽」なのだ。
とあります。
私も夏が好きで、海が好きなのですが、この人の歌を読んでいると胸が痛いほど切ない気持ちになりました。多分、私にとっての「海」は「ゆきてかへらぬ」場所だからだと思います。祭りも、海も、夏も、もう自分はそこにはいない、と思いながら愛する存在だから。
視野すべて空となりゆく夏の坂のぼりつめれば海に開ける
キッチンにラムネの気泡あふれ出て緑の海のすずやかに立つ
本当に好きで胸が苦しくなりました。こういう思い、うまく言葉にできないので、こうやって鮮やかに詠われているのを見ると嬉しくて、分かる!ってなって、でも切ないです。この人の海と私の海は同じではないし、どうして自分の中にはこういう言葉がないんだろうなって気持ちにもなります。
解説に
沈みゆく夕陽でも静かな月でもなく、ぎらぎらと輝く真昼の太陽をここまで魅力的に詠める歌人は、案外少ないように思う。
とありましたが、多分真夏の真昼の太陽の海に、いまここにいる、っていう感覚を持って歌を詠める人が少ないからかなって感じがしました。それは遠い日の思い出で、今の自分は夕陽の中にいる、って感覚の人が多いんじゃないかな、自分も含めてですけど。
海入りの薄青硝子 兵児帯の姉と眺めた瓶越しの夏 (yuifall)