山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
山下泉
花の名を唱えつつ入る治療室 わたしがわたしに戻る水辺よ
ゆらゆらと出光画廊の角膜に月の哀しみのムンクは架かる
「病院」と「画廊」をモチーフに、「残酷な童話」のような世界が描かれている、と解説されています。
この人は『短歌タイムカプセル』でも登場していて、その時は、なんとなく外国のジュブナイルっぽいけどちょっと淫靡な感じもするなー、などと書いていたのですが、こうやって色々読んでも未だに印象を掴みかねています。
病廊は病巣のごとく野にうねる 羽曳野という古き解剖台
解説には
山下が好んで舞台にするロケーションとして、病院と画廊がある。病院は、管理の行き届いた真っ白な世界。社会から少しばかり遊離したような空間だ。また画廊は、絵画という別世界とダイクレトにつながっている。病院は純白で、画廊は極彩色。そこが違いだろう。 (中略) 病院と画廊を接着するキーワードは「廊」。長い廊下を先の見えないまま歩き続ける。そんなイメージが歌集全体に満ちている。歌集そのものが、とても静かで自分の足音ばかりが響く「廻廊」として設計されている。迷うこと。それが山下が読者に託すメッセージなのかもしれない。
とあります。空間も時間もねじれて迷って閉じ込められる感じでしょうか。
引用されている歌を読んで色々考えたのですが解釈がすごく難しく、色々ググったりしていて、有名な短歌評論サイトの『橄欖追放』にも記事がありました。
そこには
山下の短歌を論じた文章を私はあまり知らないが、山田航の「トナカイ語研究日誌129」では、山下の短歌は「残酷な童話」のようであり、「終わらない子供時代への憧れ」ゆえに「奇想的な世界観」を展開しているとされている。また山下は病院と画廊をよく歌に登場させるが、それをつなぐキーワードは「廊」であり、うねうねと続く無時間的な廊の迷路に読者を誘っていると続く。山田の文章を読んで、同じ短歌でも人によって受け取り方がずいぶん違うものだと驚いた。
とあり、人によって感じ方がずいぶん違う歌なのかもしれません。また、
前のコラムにも書いたことだが、山下の歌の特質は、ドイツ文学、特にリルケへの傾倒に由来する選ばれた言葉による硬質な抒情と、現代詩へのゆるやかな接続を意識した語法にある。それが「遠き夜を手繰れば揺れる魚と蝶くぐりきし水まとえる光」のように高度に象徴的で詩的圧縮を伴う歌となって現れる。
とも書かれています。このコラムでは
ホネガイの影ひらきゆく夕べまで傾けつくす夜の水差し
という歌を引用し、
ホネガイとはまるで魚の骨のような棘条の突起を持つ貝で、古代フェニキアでは貝紫の原料として用いられた。形が美しいので置物として窓辺に置かれているのだろう。「ホネガイの影ひらきゆく」は日が暮れて貝の影が伸びる様で、時間の経過を表している。その様が水差しを傾けて零れた水が広がる様子に喩えられている。ホネガイは貝紫の原料なので、この歌の裏側には紫色が潜んでおり、それは迫り来る夕闇の紫と見事に呼応している。色彩と時間とが緊密な語法で詠み込まれていて美しい。山下の真骨頂はこのような歌にあると思われる。
と解説されています。
こんな風に歌を読めたら、どんなに世界が豊かになるだろう。こんな世界は私の中にないなぁ、こんな歌が詠めたらなあ、とも思いました。一人で読んでいたら読みこなせない歌だったので、このように素晴らしい解説にあって歌を鑑賞できることに感謝します。もっと色々な歌や解説を読んで、短歌を読む力を鍛えたいです。
針進むごと夜は深しかなしみも壁を飾らば美しからん (yuifall)