「一首鑑賞」の注意書きです。
36.一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ
(永田和宏)
砂子屋書房「一首鑑賞」で前田康子が紹介していた歌です。
最初、作者名を知らずにクリックして、作者の名前を見てからああ、と思いました。なんかすごくジレンマというか、作者の名前を見ることによってこの歌の背景が生々しく伝わったと思う一方で、違う読み方、もっとたわいない読み方を書くのがはばかられるように感じたからです。
解説にもありますが、
もちろんこの歌は病床の妻、河野裕子との残された時間を惜しんで詠まれた歌である。さらに何度も読んでいるうちに、この歌は自分にも、この世に生きている人それぞれにもあてはまる歌だと思う。生きるということは死へ向かって一日一日残された時間が減っていっているという事なのだから。ただ常に自分が「死」を遠いものと思っていて、時間が減っている感覚がまったくないのである。親しい人との残された時間は一日ごとに確かに減っていっているのだ。
ということです。病床にいる妻との一日いちにちを惜しむように詠まれた歌。そしてそれはもちろん、現存する全ての人に適応可能でしょう。人は致死率100%の存在であって、一日過ぎれば一緒に過ごせる時間は一日減るのだから。
ですが、作者名を見るまえ、私はもっとずっとたわいもないことを考えていました。季節のうちで一番夏が好きで、日の長い間が好きです。だから夏至が過ぎるとちょっぴり寂しく感じるし、秋分の日を過ぎてからはずっと冬至を待ってます。
だからなんていうか、生きるか死ぬかっていうよりも、出会って同じ時間を過ごしてまた去っていくというか、繰り返す季節の中で意識されるちょっとした日の長さとかそういうことを考えていて、夏至が来年も来るとき「そこにあなたはいない」っていうんじゃなく、「また夏至がめぐってくるようにあなたにもまた出会える」というように読んでいました。七夕みたいに。
それでもいつか「あれが最後の夏至だった」と思うことがあるんでしょうが…。それが分かる病を隣で見守ることも、そうと分かることなく突然失うことも、どちらも辛いだろうな、とふと考えました。
もしきみが昼を生きてる魔女ならば僕は赤い帆上げて待ってる (yuifall)