「一首鑑賞」の注意書きです。
394.幸せそうに見えないように小田急に乗せられている数多のいのち
(小松岬)
に続けて砂子屋書房の「月のコラム」から。
この歌は
引用2首目、「幸せそうに見えないように」というのは、2021年8月6日に発生した小田急小田原線での無差別殺傷事件の犯人が「幸せそうな女性を殺したいと思っていた。誰でもよかった」「大学時代にサークル活動で女性から見下され、出会い系サイトで知り合った女性ともうまくいかず、勝ち組の女性を殺したいと考えるようになった」「可愛らしい服を着て男性に好かれそうだったため殺そうと思った」等と供述していたことに由来する。
という背景があって詠まれています。
私は雑誌で最新の歌を追ったりとかそういうのは苦手なので受賞作品や短歌のトレンドのことは知らないのですが(それどころか近年「短歌ブーム」と言われていることもコラム読むまで知らなかった)、この新人賞の選考会での斉藤斎藤の発言が物議を醸していたことは知っていました。
「しふくの時」は、フェミサイドの事例に呼応した#MeTooの、短歌における実践である。さて、選考座談会における斉藤斎藤の「しかし短歌の世界は、もちろんいろいろ問題はありますけど、外の世界よりかはリベラルで、短歌の世界でこういう作品を発表することで批判されることはなく、むしろ褒められやすいと。外の社会ではフェミニズム的な発言をすると、ツイッターで絡まれたりしてぜんぜん安全ではないんですけど、短歌の世界では追い風が吹いていて、むしろ安牌なわけです。そういう状況で、そういう作品を応募作として出すことに、ちょっとだけ考えてみてほしいんです。本当にこの視点に乗っかっていいのだろうか。ここにあるのは社会的な意義であって、文学的な意義ではないのではないか」という発言に関してであるが、これはフェミニズムに対する典型的なバックラッシュである。文学(Bungaku)を盾にしたバックラッシュ(Backlash)なので、ブンガクラッシュ(Bungaklash)とでも名付けておいて良いだろう。「短歌研究」2022年9月号の時評で鯨井可菜子は「当事者がその苦しさを作歌の動機とし、詩的な昇華に挑むことは、そんなに「安牌」なのだろうか」と疑問を呈しているが、同感である。
と書かれています。
斉藤斎藤の発言の主旨は、「フェミニズム」というか「女の生きづらさ」みたいなものは社会の中では「弱者」性であるが、短歌界ではむしろその「弱者」性は「安易な売り」なのではないか、という意味でしょうが、これ読んですごく意外に思いました。というのは、斉藤斎藤自身が『人の道、死ぬと町』で、「社会的弱者」としての当事者性を前面に押し出したような連作を書いていたからです。以下、連作「わたしが減ってゆく街で ~NORMAL RADIATION BACKGROUND 4 東京タワー」から少し長く引用します。
わたしの父は高卒で、母は中卒だった。両親は姉とわたしを産んだ。
2人を大学にやることは経済的に厳しいと判断した母は、姉に自宅から通える国立大学の受験のみを許可した。姉は受験に失敗し、二年制の専門学校を出て就職した。わたしは一浪して私立大学に入学し、さらに一年の留年を許された。
もしわたしがわたしの父だったら、子どもは姉1人にとどめ、わたしをつくらなかっただろう。わたしよりも姉が苦労することは許せなかったから、かぎられた資金を姉1人に費やし、すべりどめの私立も受けさせただろう。
しかし、わたしがわたしの父でなかったためにわたしは産まれ、四年前、姉は1児の母となった。
四年前かは定かではない 父に電話するといちいち長くなるから
(中略)
一九九〇年、バブル崩壊。わたしは高校を卒業する。
一九九三年、就職氷河期突入。
一九九六年、就職活動もロクにしなかったわたしは、大学を卒業してフリーターになった。
高校生の私は、就職はできて当たり前。就活は、10人中8人が座れる椅子取りゲームと思っていた。
しかし大学生活を送るうち、みるみる椅子は減らされてゆき、卒業する頃には、10人に三つの椅子しか残されていなかった。
三つの椅子に、座りたくなかった。減らされた椅子に座れたはずの5人を押しのけてまで、座りたくはなかった。
ゲームに負けるよりも、こんなゲームを戦いつづけるほうが、よっぽど屈辱的に思えた。
そうまですれば勝てたかどうかは別にして、そうまでする自分は許せなかった
(中略)
バイトや派遣を転々としながら、
二八歳で短歌に出会った。
短歌で食えるわけでもなく、
短歌で出会った嫁に家賃を払ってもらいつつ
なんとか食いつないでいる。
結婚していると時々、「子どもは?」と聞かれる。
「まだです」、「いやあ、お金が」で
話題は終わらせられるのだけれど、
ときどき妙に食い下がってくるのは
決まってひとつ上の世代だ。
子どもなんて産んでしまえばなんとかするものでしょうとか言っちゃえる世代
「月収十四万なんですよ」と言ったら、黙られた。
黙るなよ。黙るなら、粘るなよ。
でもたしかに、本気で子どもがほしければ
どうにかなんとかするのかもしれない。
短歌をやめて、朝から晩までがむしゃらに働き、
わたしの時間を売ったお金を1人娘につぎ込んで、
大学の学費は出せないだろう。
そうして育てたわたしの娘が
わたしより出来が悪かったら、
わたしは娘を憎んでしまうかもしれない。
私が死んでしまえばわたくしの心の父(になることがなかった私は人としての責任を果たすことなく死んでしまうのだろうかとおもう気持ち)はどうなるのだろう
(中略)
生まれなかった子どもたちのおんなじ顔が
見まわす限りの山肌にならび、
いっせいにこちらを向いている。
わたしはわたしの地蔵がほしい、と思う。
わたしたちがつくろうともしなかった娘の冥福を祈り、
わたしたちはわたしたちを養うのに精一杯で申し訳ないと
地蔵の前に頭を垂れて、
あなたの分も幸せになるのだ。
わたしは何も失っていないわたしたちの次の世代が失われただけだ
ここで描写されるのはいわゆる「社会的弱者」としての「当事者性」です。あまり裕福でない家庭に産まれたこと、自分のために姉の進学が制限されたこと、就職氷河期に社会に出たこと、誰かを押しのけてまで就職しようと思えなかったこと、バイトや派遣を転々としたこと、奥さんに家賃を払ってもらっていること、月収が低いために子どもを持たない選択をしたこと。
最初の姉と弟の話は典型的な「ブラザーペナルティ」に相当する状況です。つまり、姉―弟のきょうだいの場合、親が弟(長男)に限られたリソースをつぎ込もうとした結果姉(女)の進学や就職が制限され、姉は同年代の女性と比べて年収が低く、専業主婦率が高く、ケア労働に従事する割合が高いという現象のことです。別に年収が低かったり専業主婦であったりケア労働に従事すること自体が悪いわけではないのですが、弟の存在によって姉の人生の選択肢が制限された結果としてそうなっていることから「ペナルティ」と呼びならわされているようです。
斉藤斎藤は「もしわたしがわたしの父ならばわたしは作らなかった」と書いています。でも、斉藤斎藤の親世代(おそらく今の70代後半~80代)に、女の一人っ子に全てをつぎ込むという発想を持つ人はほとんどいなかったのではないだろうか。同じ一人っ子でも、女ではなく男だったら違っていただろう。第一子が男だったら斉藤斎藤は産まれていなかったかもしれない。なぜ親が2人目を作ったのか、なぜ姉ではなく弟にお金をかけたのか、それを分かっていてこれを書いていると思っていたのですが。
ここで斉藤斎藤はある意味、男性優位社会によって加害者にさせられています。自分が望んでもいないのに姉の人生における「ペナルティ」的存在になっているからです。彼は積極的に加害者となることに耐えられなかったのか、その後「他人を押しのけてまで椅子には座りたくなかった」と就職活動を降りています。しかしその言葉は当時就職活動を成功させた人間(社会的強者)を糾弾するものでもあります。子どもを持たない人生を選択したことをやむを得ないとしながらも、そこに無神経に触れてくる年長者にはやや攻撃的に対応している。
なので、このような創作をする人が、社会的弱者性を詠むことを「安易な売り」と考えることがちょっと意外だったんですよね。
というか、斉藤斎藤の発言においては2点のやや位相の異なったポイントが挙げられているように思えます。まず1点目は、「安易な売りを応募作として出す」こと。そして2点目は「社会的な意義と文学的な意義」の差異。
1点目について、確かに斉藤斎藤の「社会的弱者」性を売りにした連作は、賞レースへの応募作ではありません。だから「弱者」性を「安易な売り」にしているわけではないでしょう。しかしながら、このコラムでは、
なぜ彼が殺ったのかよりなぜ俺が殺らないのかの方が気になる (遠藤健人)
を含む連作「ゆっくりでいい」(同じ新人賞応募作)からも作品が引用されていますが、これらはほぼ典型的な「弱者男性」の歌です。斉藤斎藤的には、これは「安易な売り」だとは思わないのだろうか?それとも単にこちらに対するコメントが引用されていないだけ?あるいは、フェミニズムは安易な売りだけど社会的弱者性、弱者男性性は安易な売りとは思っていないということ?
あと、2点目について、「社会的な意義と文学的な意義」という意味がよく分かんないんですよね。
例えばフェミニズムやLGBTQなどの当事者性という、「追い風」とされる創作が「社会的な意義であって文学的な意義でない」とするなら、そしたら伝統的に詠われてきた「母あるいは父であること」「親の介護や死」「恋や友情」「青春」「被災者」「いじめ」「戦争や安保闘争」等の当事者性はどう捉えればいいのだろうか。斉藤斎藤が詠ってきたような、震災詠や氷河期世代を題材にした歌には一体どういう意義があるのだろうか。一体何が「文学的な意義」で何がそうでない?自分の当事者性から離れるべき?社会的な出来事、具体的には震災や戦争、地球温暖化とか円安とかそういうことを詠うのは文学的な意義がある?「社会的な意義であって文学的な意義でない」とは?
問題は、この人の歌を個人の体験や個人の感覚として受け止めず、「フェミニズム」として「社会的」に読み解こうとする方にあるのでは?むしろなぜ短歌はこれが「誰の」歌であるか、という「当事者性」から離れられないのだろうか。女の歌はいつまで「フェミニズム」と色をつけられるのだろうか。というかかつては男性の歌がメインストリームで、男性の言葉は「社会詠」で女性の言葉は「フェミニズム」だったのかもしれませんが、どちらかというと最近は男性の言葉にすら「弱者男性」などの色がつくようになった感じがします。そうなるとあらゆる短歌が作者の背景によって「フェミニズム」「社会的弱者」「LGBTQ」などと定義され、「社会的な意義であって文学的な意義でない」作品ばかりになるのでは?
その辺のことが私には理解できてなくて、このコメントを消化しきれません。ここに書いていることもしかしたら全然的外れかもしれないとも思う。ていうか斉藤斎藤は東郷雄二に「原理主義」と評されているようにおそらく何らかの強固な意図や背景があってこれらの言動をしているのだと思うのですが、私のようなど素人にはそれが何なのかが正直よく分からない。「フェミニズムに対するバックラッシュ」と単純に受け止めてよいのかどうかすら分からん。おそらく斉藤斎藤にはフェミニズムを否定する意図はないんだと思いますけど、そうは受け取られないだろう(実際否定していると思われている)というのも分かるし。
続きます。
男根主義の対義語ってなんだろうとか思いつつ下す大根 (yuifall)