山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
野樹かずみ
誰も見ることなき裏の顔を持つ月球ひとつ抱けりわれも
月の裏側は見えないってよく言いますよね。この人の「月」の歌が好きです。解説にこうあります。
2011年の第2歌集「もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう」はその長いタイトルが特徴である。これは収録されている一首をまるまるタイトルにしてしまったもので、短歌一首を丸ごと表題にするのはかなりユニークである。
(中略)
野樹がもともと短歌を始めたきっかけとなったのは、蝦名泰洋との出会いだという。その影響にあるのか、天体のイメージを多用した独特の幻想世界を構築している。
月の歌として、
夜行バスの窓から見えた満月のほかは全部がゆめかもしれない
街路灯のひとつひとつを「つき」と呼ぶおまえと歩けばあかるい銀河
などが紹介されています。
この人はフィリピンのスモーキー・マウンテン(ゴミ山のスラム街)の麓でフリースクールの運営に携わっていたそうで、ここで詠われている「おまえ」はもしかするとスラムの子供のことなのかもしれません。
路上の屍 連行される若者たち 朝日ジャーナルの記事など送る
おかあさんって日本語で呼ぶのよおかあさん 朝鮮の子も台湾の子
といった生々しい社会詠が引用されています。解説には
野樹は学生時代から在日韓国人被爆者の体験記の聞き取りに携わっていた。二重の疎外を受けた者の苦しみを記録することが、作風の完成へとつながっていった。歌集には原爆、テロ、貧困、フィリピンのゴミ山といったモチーフがひたすらに綴られる。野樹はこれらの社会問題を、決して傍観者にはなろうとせずに弱者の立場の一人称で描こうとする。それはときに「虚構の主体」にもなりうることがある。それはときに、たとえば作者自身が在日韓国人であるなどのような誤解を与えることもあった。
また、
野樹はもとよりかたちをもつことを拒んでいるのだろう。それは国境に対する拒否であり、他者と自己を徹底的に峻別することへの拒否である。(中略)野樹の短歌を読んでいると、「助ける」という意識というよりも他者の主体を自らの内に取り込むことが目的だったのではないかと思えてくる。
とあります。斎藤斉藤の震災詠でフォーカスされた「成り代わり」の歌を、生き様として実践してきたということなのでしょうか。この人の短歌における「私性」を現代のコードで読み解くのも面白いのかもしれません。また、「成り代わり」の歌はこのように社会詠の分野で強さを発揮するように感じるのですが、他にどういうシーンで論じられているのかな、と思ったりもしました。
誤訳は 四千年人肉を喰らうまぎれなく俺もそのひとり、の箇所
こんな歌もありますが、これが誤訳だとしたら本当の文章って何なんだろうな。
魂を消しゴムみたいに割ったから月の裏へと海染みていく(yuifall)