「一首鑑賞」の注意書きです。
397.美しいみずうみは水槽だった気づいた頃には匂いに慣れて
(ショージサキ)
に続けて砂子屋書房の「月のコラム」から。
最後に「Lighthouse」からもう1首引用します。これが一番好きかもしれない。
美しいみずうみだと思っていたものが水槽だった、と気づいた頃には匂いに慣れているということは、その匂いは水槽の匂いだったのだろうと思います。直感的に、あまり洗っていない水槽の匂いをイメージします。でもその匂いで「ここが水槽だ」と気付くことはなかったんですよね。それが何か不思議な気もするし、そんなものだ、って気もする。かき氷のシロップは実はみんな同じ味、みたいなことを思い出しました。
鑑賞文にはこうあります。
一連の最初に置かれた歌に立ち戻ってみよう。もしかすると「美しいみずうみ」が「水槽」であると気づかずにいられたかもしれない、という仮定は、必ずしも「美しいみずうみ」という過去の認識の否定ではない。たしかに「水槽」はもはや「美しいみずうみ」には戻れないが、かつて「美しいみずうみ」と思っていた何かであることは変わらないからだ。「匂い」が認識に溶け込むようにして、一見すると矛盾や曖昧さで捉えられてしまいそうな何かが、ある時点では確かに現出する。しかしそれは、定義づけからあらかじめ逃れた「幸せ」な地点からの着想ではなく、どこまでもついて回る非対称な構造に晒され続けるなかで記述された、複合的ないし交差的な定義づけの繰り返しだったのではないか。
正直、後半の「「匂い」が認識に~~」のあたりからちょっと文意が理解できないので何とも言えないんですが、「たしかに「水槽」はもはや「美しいみずうみ」には戻れないが、かつて「美しいみずうみ」と思っていた何かであることは変わらないからだ。」っていうのは違うんじゃないかと思います。ここは水槽だった、そう気づく瞬間は私にも確かに何度かあったと思う。私は自由な美しいみずうみにいるのではなく、この透明な檻の中で評価・鑑賞される側の人間だったと。そしてそれに気づいてしまったら、もうそれは「美しいみずうみ」と思っていた何か、ではなくなる。そこには「水槽」という現実があるだけです。つまり、私は「美しいみずうみ」を目の当たりにしていたわけではなく、水槽を「美しいみずうみ」だと思い込もうとしていただけなのだから、それは「美しいみずうみ」と思っていた何か、ではあり得ない。
まあ、でもこれは私がそう思っているだけです。もしかしたらそうじゃないのかもしれない。トリックアートみたいに、仕掛けを知っていても見ようと思えば美しいものに見えるのかもしれない。ただもしこれが人生の一場面の暗喩であるのなら、自分はそうではなかったと思うにすぎません。
HOLD ON TO SIXTEEN
あなたには16歳でいてほしい なぜかな、若さはゴミだったのに (yuifall)