の続きです。
ストーリー内では「結社」制度にまつわるごたごたとか、短歌賞のあれこれとか、短歌作者の経歴詐称問題やそれに関連して短歌や連作の「私性」にまつわる問題などが提示されます。でも、基本伊賀と(短歌ど素人の)国友目線でストーリーが展開するので、短歌にまつわる問題に関してはほぼ伊賀の視点からしか描かれず、多面的に描写されているとは言い難いです。
まあ、媒体がケータイ小説だったそうなのでこのくらいのライトさが落としどころかな、という感もありますね。読者層を考えると、この本だけで短歌界を論じる人はいないだろうし。
それにしても上記の「連作の私性」の議論ですが、作中で国友が主人公を次々変えた連作を作って、
「あのさ国友。短歌は一人称の文学だって話は、したよな」
「はい。歌の主人公は、歌の作者とイコールで捉えられるのが普通なんですよね」
「そう……」
「だけど、ひとつの連作で、いろんな主人公がいたら面白いんじゃないかって、思ったんすよ」
「たしかに、それがありだった時代もあるし、そういうの、試みた現代歌人もいるんだけどな。やっぱり歌の主人公は、作者だと思って読まれるんだよ。歌壇では」
「そうなんすかね……。短歌の世界ではそうかもしれないっすけど……」
伊賀さんは、僕に苦言を呈しながらも、なんだか嬉しそうだった。
「でも僕、『ばれん』にも参加してないし、ひとりで短歌つくってるし、いいんすよ……。短歌の世界のルールなんて」
伊賀さんは僕に何かを言おうとして、やめたみたいに見えた。
というシーンがあります。
まあ、重大な前提として、国友の連作は一見して同じ人が作っていないことがなんとなく分かるので(中の人が違う作品の寄せ集め)単純に「連作における私性」の問題を論じるには向かないんですが、実際に連作内で主人公が変わっていくことについて作者の枡野浩一はどう思っているんでしょうね。
2012年のTwitter上の発言がネットに残っていて
歌人 枡野浩一 Koichi MASUNO @toiimasunomo
@reracise1972 (私は「筆名」を「コスプレ」と重ね合わせています)(「コスプレ」はまた「現代なのに古文や旧仮名をつかうこと」にも重ね合わせられます)(旧仮名はおたく文化と親和性がある)(「コスプレ」も)(つまり現代短歌は全体的におたく文化と親和性があると感じています)
2012-09-10 02:28:56
と、筆名を名乗ることに批判的であると受け止められるような発言をしています(枡野浩一は古文や旧仮名で歌を詠むことも批判している)。要は現実には「作中主人公は作者である」という伊賀の主張を支持しているようにも感じられます。ですが、作中では国友の短歌に新たな驚きがあるという論調でストーリーが展開するので、どちらの<私性>にYesと言っているのか分かりにくいです。単にストーリー上では結論を出していないだけかもしれませんが。
とまあ、年月を経て自分の感じ方や受け止め方が変わったことも感じつつ読んだのですが、Wikipediaを読んだら登場人物の名前が全て有名歌人のアナグラムになっていると書いてあってびっくりしました。確かに変な名前だなあとは思っていましたが、全然分からなかった!
特に笹伊藤冬井の項目、
伊賀より3つ年上の歌人。京都の老舗和菓子屋の末っ子で、本業は写真家。最近は若手歌人の歌集の装幀も手掛けているが、伊賀に言わせれば写真が美しいだけで文字部分の処理は素人以下、短歌も「言葉のかっこよさだけで成立」させているとのこと。伊賀が笹伊藤を嫌うのは、つまりは嫉妬である模様。名前は斉藤斎藤のアナグラム。また、この小説では複数の歌人の提供作品が一人の登場人物の作品としてまとめられているが、笹伊藤のみは笹井宏之の作品と一対一対応している。
と書いてあり笑ってしまった。枡野浩一と斉藤斎藤との関係についてはまあいいとして、でも斉藤斎藤のアナグラムの「笹伊藤冬井」に笹井宏之の短歌を持ってくるあたり、これってある意味愛なのかなとも思ってしまった。
ちなみにこの2人(枡野浩一と斉藤斎藤)の関係についてはググると色々出て来るのですが、枡野浩一と穂村弘の対談面白すぎて噴き出さずには読めませんでした…。
ここで枡野浩一は
枡野 なんでみんなそこに寛容なの……? 僕、歌人って経歴詐称の人が多いと思ってるんですね。塚本邦雄さんとか。寺山修司さんとか。どこまでを経歴詐称というかとかいろいろあるでしょうけど。あと、本人はそのつもりじゃなくて、周囲の人が間違えてるだけのこともあるかもしれませんよ。
でも僕から見ると、本が出るたびに生まれ年が違ったり、エピソードが違ったり。寺山修司なんか評伝がいっぱい出てるから、いろんな人がいろんなこと言ってるから。結構、本人の自称も間違えてて……。
なんでみんな、そういうことに寛容なんだろう?(ドキュメンタリー映画)『全身小説家』の主人公の小説家(井上光晴)みたいに嘘つきなのに……って思っちゃうんですよ。
って発言してて、やっぱり本人であること原理主義みたいな雰囲気を感じるんですよね。嘘断固反対みたいな。
次回に続きます。