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枡野浩一『ショートソング』 感想2

枡野浩一『ショートソング』 感想1

の続きです。

 

 昔読んだ時は短歌すごくよかったなって薄ぼんやり思ってて、今読み返してもそうは思うのですが、一方で口語の「うまい」歌が並ぶのでちょっと食傷気味になってきます。一首一首はすごくいいんですが、まとまって読むとまたこれ系かぁ、みたいな。

 これはアンソロジーでしか短歌を読んでなくて歌集を読み慣れていない(一度に同じ作風の歌を大量に読むことに慣れていない)素人の感覚かもしれませんが、『ショートソング』読む層の多くは短歌素人だろうから素人目線で書きますけど、せっかく「ばれん」って短歌結社まで出てきていて思想的対立?みたいなものも描かれるのに、短歌の修辞に分かりやすいヴァリエーションが乏しいので、結社内のごたごたがピンと来ないというか…。

 五百田案山子というトランスジェンダーの「ばれん」主催者が短歌を批評したり佐々木瞳と対立したり国友を結社に入れなかったりとかしてますが、出てくる歌の何がよくてなにがよくないかとかそういう批評は基本されないし、国友を結社に入れなかった理由も「顔が好きじゃない」で五百田が変人であるということくらいしかはっきり描写されません。

 ストーリー上に文語体や旧仮名を使って歌を詠む人が登場しないのは、おそらく舞台となった結社「ばれん」の作風がそういう設定なんだということは分かるし、枡野浩一の言ういわゆる「かんたん短歌」が評価される界隈内に限局した人間関係のストーリーを描いているんだろうとは思うんですが、それだったら「ばれん」で国友の短歌もすんなり受け入れられるはずで、物語の最初のあたりで「国友の短歌のよさが分かるのは俺くらい!」って伊賀が思うのもピンと来ない。

 

 国友の歌はしょっぱなから

 

焼きたてのパンを5月の日だまりの中で食べてるようなほほえみ (国友克夫/篠田算)

(*前の名前が作中キャラクターで、後の名前が実作者です)

 

みたいな感じでレベルの高い「かんたん短歌」ですが、「ばれん」界隈からすると極度にアヴァンギャルドであるとは感じません。これは今2022年に読むからそう思うのであって連載当時2005年はそうではなかったのかもしれませんが、でもなー。「ばれん」の作風がもし

 

受胎せむ希ひとおそれ、新緑の夜夜妻の掌に針のひかりを (塚本邦雄

 

みたいな感じだったら、結社内では国友の短歌は「ないだろー」ってなるかもしれないけど、「バレンタイン」というテーマで詠んだ他の「ばれん」所属歌人の作品も

 

毎日がバレンタインであったなら「イエス」「ノー」だけ言えばいいけど (国友克夫/仲間大輔)

 

勝たされただけの気もするけどいいの ちよこれいとであなたにとどく (モブ歌人/平賀谷友里)

 

ゴディバよりチロルが美味いという人と舌をからませ悔やんでません (モブ歌人/沼尻つた子)

 

みたいな感じですからね。国友の歌が受け入れられないとは思えない。

 あと、国友の歌が際立つように、モブの結社会員が作った歌の中にもっと明らかに「こりゃダメだなー」みたいなの入れてほしかったな。確かに一読して国友の作品とされた歌の方がいい歌多いなとは思ったのですが、それでもモブとして登場した歌も悪くはないですよね。「ちよこれいと」の歌なんか好きです。

 

チョコレート 塩など入れて いないのに 涙に濡れて しょっぱくなった

 

みたいな、いかにもなダメ短歌混ぜてくれないと(今適当に5秒で作った)。

 

 他にも短歌結社とは関係ないキャラクターとして上戸千香、佐田野慎などが登場しますが、個々のキャラ間で素人目にも明らかな作風の違いというものは感じられません。結社外のキャラ出すなら、結社の作風から離れた文語作品とか口語でももっとかっちりしたものとか出してもよかったのでは。

 

 キャラクターごとの作風に大きな違いがない理由の一つとして、中の人が被っている(交差している)という理由も大きい気がします。例えば

 

それなりに心苦しい 君からの電話をとらず変える体位は (佐々木あらら

 

強姦をする側にいて立っている自分をいかに否定しようか (枡野浩一

 

この人のいびきまでもが愛しくて思わず眉をはむはむしちゃう (貴志えり)

 

明るすぎてみえないものが多すぎる たとえば いいや やっぱやめとく (宇都宮敦)

 

なんか全て作風が違っていて、全て作中では伊賀寛介の作品として提示されるんですが、実作者を知る前から多分中の人はみんな違う人だろうなーって思った。逆に、実作者が同じ作品、例えば

 

土砂降りの夜のメールでとんでいく 僕という字は下僕の僕だ (佐々木あらら

 

辞書をひきバレンタインが破廉恥の隣にあると気づいている日 枡野浩一

 

は今度は国友克夫の作品として、

 

さっきからずっと出ている虹だからまだ見てるのは私だけかも (篠田算)

 

は須之内舞子の作品として提示されます。

 特に「破廉恥の隣」の歌なんかどうしても国友の作風に見えなくて伊賀の作風に思えたのですが、それもそのはずで枡野浩一の作品だったんですね(伊賀の歌として提出される歌の多くは枡野浩一の歌です)。小説の作中人物が短歌を詠んでいる、というより、枡野浩一の好みの短歌ありきでそれに当てはめてストーリーが展開していくように感じました。

 逆に作中で色々挫折を経験した伊賀が後半がらっと作風を変えてくるのは、前半は中の人のメインが枡野浩一だったのに対し後半は宇都宮敦になっている、というのが大きくて、これに関しては面白い試みだなと思いました。(まあ、実際、これは違う人が作っているなって分かったのですが…。)

 

 『桜前線開架宣言』読んでて、同じ口語短歌でも例えば笹公人としんくわと笹井宏之では作風が全然違うし、女性では大森静佳と野口あや子と加藤千恵では全然違うと思ったのですが、『ショートソング』で採用されている短歌は作中作者と実作者が入り乱れているし、全て枡野浩一のお眼鏡にかなった作品だから?なのか、それとも「社会詠」とか「時事詠」がそぎ落とされて日常詠、相聞にほぼ特化しているからなのか、キャラクター一人一人について作風を描き分られてはいません。まあそもそもこの作品がそういう意図で作られたものじゃないのかもしれないけど。逆に言うとどれも粒ぞろいで読み応えはあるんですけどね。

 

 次回に続きます。

枡野浩一『ショートソング』 感想3

枡野浩一『ショートソング』 感想4

枡野浩一『ショートソング』 感想5