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「一首鑑賞」-229

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

229.なんどでもひかりはうまれもういちど春の横断歩道で出会う

 (伴風花)

 

 前回

yuifall.hatenablog.comの続きです。

 

petalismos.netから引用してます。

 

 前回「短歌的喩」の不在、と評されていると紹介した伴風花の歌ですが、『橄欖追放』の記事で表題として取り上げられているのはこの一首

 

なんどでもひかりはうまれもういちど春の横断歩道で出会う

 

です。ここではいくつかのポイントが指摘されています。

 

 まず一つ目は、(当時の)若手歌人の歌は、

 

「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間、そのさまざまな試みや議論を捨象した最もスリムな形をして」(川野)おり、「三十一文字と『私』だけが居る」(同)

 

ということ。つまり、いわゆる過去の「歌論」(古代の歌の作り方、近代における<唯一の私>論、前衛短歌、口語短歌、ニューウェーブ、など)を踏まえない歌作り、という意味でしょうか。平たく解釈すると、短歌という文学形式を全く知らない人に、「今の気持ちを三十一文字で表現してください」と言って出来上がる作品のようなもの、と受け取れます。

 記事では何首かを引用し、このように評しています。

 

 このように〈私〉はひたすら自分の思いを三十一文字に盛ろうとする。あとがきにあるように、伴にとって短歌とは「時々、一瞬、流れ星のようによぎってゆくきらきらした気持ちやできごと」を、「閉じこめておく」器なのである。このような短歌観から何が出て来るだろうか。自分の思いを閉じこめておく形式としての短歌と対をなすのは、感じたことを短歌に閉じこめようとする〈私〉である。短歌という鏡の前に、裸の〈私〉が立っている。〈私〉は素直でピュアであればあるほど、鏡に映った姿もピュアになる道理だ。これは短歌におけるプロテスタンティズムであり、一種の原理主義である。

 

ここまでは分かります。

 そしてこれを踏まえて、二点目の指摘がされます。それは、「裸のピュアな<私>」を三十一文字の中に剥き出しにするのは、痛ましいということです。東郷雄二は

 

しかしここには重大な陥穽があることに気づかなくてはならない。それは鏡に映った〈私〉を素直でピュアな姿にしようとすればするほど、〈私〉は傷つき血を流さなくてはならないということである。

 

と書いており、また、

 

川野里子の言うように、今の若手歌人の作る短歌に、「前衛短歌とは全く異なるもっと荒涼とした今」が感じられ、「モノローグの深い寂しさ」があるのは、そのためではないだろうか。

 

と、川野里子の言葉を引用しています。

 個人的には、正直なところ、「痛ましさ」についてはよく分からないです。若さ特有の痛ましさのようなものは感じますが、それが作歌スタンスによるものなのかはよく分からない。若さゆえの「痛さ」が剥き出しすぎて読むのがしんどいよ、という意味ならば分からなくもないですが。ここで言われている「痛ましさ」っていうのは、「痛々しさ」なんだろうか、それとも「イタさ」なんだろうか。

 

 次に三点目として、このような思想から生まれる歌には「短歌的喩」が不在である、と指摘しています。これは前回記事でも触れました。これは「短歌」という文学形式の背景を踏まえない、という作歌スタンスに加えて、歌の世界が心情のみで成り立っている(情景が不在である)ということを意味しているのではないかと思います。<私>と<歌>が直接向き合って何かが介在しない時、そこに<背景(過去や情景を含めて)>は存在しないわけです。だから

 

歯みがきをしている背中だきしめるあかるい春の充電として

 

このような歌について、東郷雄二は

 

強いてこれを空白喩と取れば、その喩が照らし出すのはいつも決まって「〈私〉のせつない気持ち」なのだ。だから伴の短歌では、裸の〈私〉が三十一文字の前に無防備に立っているという構図になるのである。

 

と書いています。つまり、あらゆる歌について、描写されていない<背景>を敢えて読むとすれば、それは「〈私〉のせつない気持ち」であると。それは川野里子の言う、「モノローグの深い寂しさ」とも重なるように思えます。

 

 前回も書いたように、これは2004年の記事です。今現在、2024年であることを踏まえてこの記事を読むと、より興味深く感じます。過去の歌論を踏まえない歌作り、つまり上述のように『短歌という文学形式を全く知らない人に、「今の気持ちを三十一文字で表現してください」と言って出来上がる作品のようなもの』、それに裸の<私>が三十一文字の前に無防備に立つ「モノローグの深い寂しさ」、それはまさにTwitter(X)短歌みたいなものだな、と思ったからです。かつて『短歌ヴァーサス』という雑誌があって、それに「ネット短歌はだめなのか?」という特集号があったと記憶していますが、調べてみるとまさに2004年の発行でした。このあたりからネットと短歌が交わりだしてきているんですかね。

 しかしながら、このような<背景>のない歌、痛ましい歌、モノローグの寂しさを吐露するだけの歌、というものを、一人の人間がずっと作り続けられるものなのか、私にはよく分かりません。当時の流行りとかネットの影響とかそういうことはあるかもしれないし、これからもそういう歌作りをする人は無数に現れるのでしょうが、一人の人間がずっとそのスタンスでいられるものなのだろうか。作歌していけば当然他の人の歌に触れることで「歌論」的なものを全く知らずにはいられなくなるだろうし、後は、自分自身の人間的な成熟や経験によって、そういう「痛々しさ」みたいなものって失われてしまうのではないだろうか。

 

 この「剥き出しの<私>」のようなスタンスは、当時の(あるいはネット世代の)「若手」歌人が通る道の一つとして加わっただけなのかもしれない、とも思いました。更に次回も伴風花の歌を取り上げます。

 

 ところで、1978年生まれということは、40代です。今はどんな歌を詠んでいるんだろう、と思いました。

 

 

スフェーンが傾くようなきらめきでぼくの知らない横顔をする (yuifall)

 

 

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