「一首鑑賞」の注意書きです。
112.標本ビンに茸がふとる研究室を辞める話につき合いており
(高瀬一誌)
砂子屋書房「一首鑑賞」で石川美南が紹介していた歌です。
この歌は、歌自体の面白さもそうなのですが、
茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして (石川美南)
みたいな「茸」の短歌を詠んでいる茸好きの石川美南が「キノコ短歌シリーズ」としてピックアップしていたので余計気になりました。読みとしては、鑑賞文にもあるように、
もちろんここでいう「茸」とは暗喩の類であって、大学の研究室という閉鎖空間の中でなかなか評価を得られずにいる人などを想像してみると、しっくりくる(文系理系を問わず、こういう立場に苦しむ人はたくさんいるはずだ)。語り手は、鬱々とした「研究室を辞める」話に半ば辟易しつつ、しかし同情をもって耳を傾けているのであろう。
ということなんだと思います。ですが、なんとなく「茸栽培キット」とか「ボトルシップ」とかをイメージしてわくわくしました。
ふとった茸はどうするのかな。そのまんま飾っておくのか(いずれ腐りそう)、ビンを割って取り出して食べちゃうのか(食べられるの?)。「研究室を辞める」んだから、腐るor出て行くの二択にも思われます。すると、いずれビンを突き破って足が生えて出て行っちゃいそうな感じもする。
冒頭に
高校の頃、部活動の一環でキノコを観察したり、化学室の棚でヒラタケを栽培したりしていた。私の出身校の名前には「柏」の文字が入っているのだが、ある日突然、シンボルツリーである柏の木の周りにコタマゴテングタケが大きな菌輪を描いて生えていた時は、嬉しくてその場で小躍りした。(中略)あのときのわくわくする気持ちは忘れられない(ちなみに高校時代、私は一切モテなかった)。
とありました。
私は田舎の進学校出身なので高校時代は周りにわりと変な人いっぱいいたし、その後も理系に進んだので変な人は周りにいっぱいいたし、変な人でもそれなりに恋人がいたので、このエピソードを読んで「この人高校の時もてなかっただろうなー」とは全く思いません。とはいえ、少し気になったのは、石川美南は「メドゥーサ異聞」という連作で
中学生の頃が一番きつかつただらうな伏目がちのメドゥーサ
目を覗けばたちまち石になるといふメドゥーサ、真夜中のおさげ髪
のように詠んでいるそうで、もしかしたら中学、高校に馴染めなかったのかもしれないと感じました。「私はほのかに毒を持つ茸」とずっと感じて生きてきたのかもしれない。
ですが、山田航は「現代歌人ファイル」で「同年代をクラスに例えると学級委員は石川美南」と書いています。
また、これらの歌は東郷雄二の『橄欖追放』から知ったのですが、
同じページでは石川美南の塚本邦雄賞受賞について
私が実際に会って言葉を交わしたことのある数少ない歌人で、その人懐っこい人柄に魅了されたこともあり、実にめでたいことだ。
と書かれており、また
『穀物』同人一人ひとつ担当の穀物ありて廣野翔一(ひろの)はコーン
「燕麦よ」「烏麦よ」と言ひ合つて奈実さん芽生さん小鳥めく
全開で笑ふ田口綾子(たぐち)よ「予言の書」と呼べば「医学書です!」と正して
「三十代で為し得たことは何ですか」光森さんに聞かれてキレる
一首目は「京大短歌」「塔」の廣野翔一、二首目の奈実さんと芽生さんは本郷短歌会の小原奈実と川野芽生、三首目の田口綾子は「まひる野」所属、四首目は光森裕樹で、あちこちの短歌団体に出入りしている石川の交友関係の広さが窺える。
とあります。だから、私は毒茸でメドゥーサ、と10代の頃は鬱屈したものもあったのかもしれませんが、今となってはそれを感じさせない人懐っこい人柄の人なのかもしれないな、とも思いました。歌人の交友関係全然分かりませんが、楽しそうでいいですね。
ちなみに検体処理したきのこを光学顕微鏡で観察した経験が何度かありますが、真菌そのもので結構面白いです。一緒に見た人は、「菌だ…。もうきのこ食えない」と言ってましたが多分食べただろうな(笑)。
菌塊がきのこのかたちを知るように世界もそうと信じたくなる (yuifall)