「一首鑑賞」の注意書きです。
4.人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす
(石川美南)
この歌に最初に出会ったのは『北村薫のうた合わせ百人一首』だったと思います。一読して、最初私は、つけまつげの歌かと思いました。「人間のふり難儀なり」というのも、オタク女子の会話にあるような「リア充の擬態しんどー」みたいな感じなのかな、と。つけまつげ付けて、おしゃれして出かけて、家に帰ってきてつけまつげも化粧もアクセサリーも全部取ってから、ああ、普通の人間みたいに振舞うの疲れるな、っていう歌かと思ったんです。
ですが、北村薫の解説にはこうありました。
睫毛は数本ではなかろう。さて、どこまで、どれくらいはずせば、自分に戻るのか。そしてまた、はずしたものは明日のため、睫毛箱にしまっておくのだろうか。
この読みでは、一切「つけまつげ」については触れられていません。「睫毛」です。
一度目に読んだ時は、北村薫が、「つけまつげ」とか、「リア充の擬態」みたいなノリが分からないからこう読むんじゃないか、って、とっさに自分の読みに寄せてそう考えたのですが、よく考えると、自分の最初の読み方が間違ってたんじゃないか、って気がします。
私はもともと石川美南の作風のことを全然知りませんでした。だから、普通の女の子が家に帰ってきた光景として読んだのですが、同じ『北村薫のうた合わせ百人一首』の同じ章で引用されている石川美南の短歌はこんな感じです(『砂の降る教室』からの引用歌のようです)。
隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな
茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして
鬼茸のやうな子供が通学路逆走しをり忘れものして
満員の山手線に揺られつつ次の偽名を考へてをり
ここに、「人間のふり難儀なり」ってきたら、それは「つけまつげ」じゃないよな。「睫毛」ですよね。睫毛はずして、人間でない自分自身に戻るんですよね。
『短歌における「わたし」とは何か?』の座談会の感想を散々書いたときに触れた、宇都宮敦の「つどつど読み」っていう言葉を、この歌を読んでいてまた思い出しました。
普通の女の子を念頭に置いた「つけまつげ」読みと、石川美南の作風を念頭に置いた「睫毛」読み。一首だけ切り離して読むことで両方の読み方が成り立って、その時々で感じ方が変わるんだけど、どこかで交わってくる感じ。
じゃあ、ふつうって何なんだろう、とか、どこまでが「ふり」で、どこからが「ふり」じゃなくなるんだろう、とか、たとえばこれがつけまつげじゃなくて睫毛エクステだったら、睫毛パーマだったら、濃いマスカラだったら、どこまでが虚構の私なんだろう、とか。
うーん、だけど、「つけまつげ」なんて一言も言ってないし、やっぱり「睫毛」かなって最終的には思いました(笑)。斉藤斎藤の言う、「ふつう」の呪縛ってこのことですよね。
「睫毛」をはずす、ことを、「つけまつげ」をはずす、って読んじゃったらやっぱり歌の意味が全然違くなっちゃうから。
しかしながら「睫毛箱にしまってまた明日つける」んだったら、つけまつげじゃん!って思う気持ちもなくはないです(笑)。
マンモスのしっぽだとして手に触れるだけの答えが救いになるの (yuifall)
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