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「一首鑑賞」-3

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

3.三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

 (平岡直子)

 

 これは山田航『桜前線開架宣言』で出会った歌です。

 

 ずっと、面白い日本語の使い方するなー、としか思っていなかったのですが、最近『ねむらない樹』という雑誌の『短歌における「わたし」とは何か?』という特集号を読んでいて、その座談会で取り上げられた短歌

 

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり (大口玲子)

 

のことを考えていて、「形容詞過去」という表現にちょっと引っかかったんですね。

 大口玲子は日本語の先生で、外国人に日本語を教えているようです。そういえば、英語で「形容詞過去」ってありませんよね。過去形があるのは動詞で、動詞の過去形+形容詞で、いわゆる形容詞過去のような状態になる。「さびしい」は形容詞だから、形容詞過去は「さびしかった」。だけど、英語ではI feel lonelyがI felt lonelyになる。過去形になるのは動詞です。「さびしいだった」だよね。

 

 これを考えていて、平岡直子のこの短歌のことを思い出しました。

 「悲しいだった」というのは、I was sadのことですよね。なんでずっと気づかなかったのかと思ったのですが、これは英語、というか、形容詞を時制で変化させない言語の日本語直訳でした。大口玲子の歌ではルーシーに「さびしかつた」と二度言わせていますが、この歌の主人公は「悲しいだった」と二度言っています。この符丁って何なんだろうか?この人は、誰か(もしかしたら自分自身?)に英語でI was sadと二度言わされているのだろうか。

 

 前半の「三越のライオン見つけられなくて」も意味がよく分かりません。三越のライオンについては、荻原裕幸

 

三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ 

 

という歌が有名だと思います。確かにあのライオンってなんとなく触りたくなるの分かるし、みんなで触っているのを客観的に見ると「何の力だ」ってことになるのかも…。もしかしたら、この人はこの「三越のライオンに手を触れるひと」になれずにいることを「悲しいだった」と言っているのかなあ。

 大口玲子の歌では、ルーシーに「さびしかつた」と二度言わせる自分の加害者性について言及されていましたが、

短歌の「私」 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

それではこの歌で「悲しいだった」と二度も言わせているのは誰、あるいは何、なんだろうか。「何の力だ」の「力」に言わされている…、って考えるとちょっと笑えるような気もするな。

 まあ、全然違うことなんだろうとは思うんですけど、単に「三越であなたに会えなくて」みたいな意味じゃないんだろうなとは思っていて、だけどそれ以上のことは全然分かりません。

 

 この歌の主人公にとって、何についての悲しみかは分かりませんが、その悲しみは、形容詞のまま過去にはできなかったのかもしれません。「悲しい」は「悲しい」ままで、時間だけが経ってしまったのかも。

 

 

お揃いのタトゥーを皮膚の内側にきみも持ってて嘘つきたがる (yuifall)

 

 

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