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桜前線開架宣言-平岡直子 感想

左右社 出版 山田航編著 「桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

 平岡直子

 

 この人の歌の解説文、難しくてよく分からんかった…。以下引用ですけど、

 

 これは穂村弘が『はじめての短歌』などの著書でたびたび触れている「生きる/生き延びる」の二項対立の図式を思い出させる。これはハンナ・アーレントがいうところの「work(仕事)/ labor(労働)」の二分法にパラレルで、美や真実を追求する人間らしい生き方か、ただ食い扶持を求めて日々の生活に追われる生き方か、という議論である。短歌とは(ひいては芸術とは)「生き延びる」ためではなく、「生きる」ための技術であると穂村は考えている。そしてこれに反対する歌人はほとんどいないだろう。

(中略)

 平岡は、弱者が最後の砦として言語表現を選んだというタイプの歌人とはおそらく違う。(中略)「生き延びる」ことに不器用で、言葉によって「生きる」ことに活路を見出そうとしたのではない。「生きる」ことにすら不器用なのだ。

 

 引用終わり。これは正直私にはよくわかりません。

 

 多分私は「生き延びる」がベースとしてあって、その上に「生きる」があるって思ってる。だけど、この議論では「生き延びる」と「生きる」は二項対立だよね。二項対立ということは、互いに排他的な概念のはず。でも私は「生きる」ことと「生き延びる」ことは互いに排他的だとは考えていないので、この議論の基本的なところからそもそも理解できてない。

 短歌とは「生き延びる」ためではなく「生きる」ための技術であるのかもしれない、確かにそれはそうだと思うのですが(私だって生きていくためには全く不必要なのにこんな文章書いてるし)、「生き延びられない」のに「生きる」ことなんてできるんだろうか?それは究極的に、例えば『夜と霧』でヴィクトール・E・フランクルが語ったような状況では、確かに「生き延びられない」のに彼は「生きて」いたんだと思うけど、普段の生活において、たとえ芸術家であっても、「食い扶持を確保せずに」「美や真実を追求して」生きることなんてできるだろうか。

 おそらく、「生き延びる」と「生きる」が二項対立になって「生きる」を選ぶ状況っていうのは、まあなんとなくですけど、石川啄木の生き方なんかはそうじゃないかなって気がするんだよね。

 

「生き延びる」ことに不器用で、言葉によって「生きる」ことに活路を見出そうとした

 

っていうのはそんな感じな気がする。でも、この場合、

 

平岡は「生きる」ことにすら不器用

 

というのはどういうことなのか?

 

 この文章の中で、“「生きる」ことにすら”というところがね、特によく分からないんですよ。私は「生き延びる」ことを前提として「生きる」があると思ってるのですが、その場合“「生きる」ことにすら”という言い回しは出てこないよね。だって『Aがあることを前提として→Bを求める』、という状況で、B“すら”ない、とは言わないだろう。逆にここで議論されているようにA/Bが二項対立だとしたら、『Aである』ことと『Bである』ことは同時に成り立たないわけだから、やっぱりB“ですら”ない、とはならない気がする。「生き延びる」ことに不器用で「生きる」ことを選んだわけではなく、「生きる」ことにすら不器用、というのなら、じゃあそこには何があるのか?

 

 やっぱりそもそも「生き延びる」/「生きる」を二項対立として考えることに無理があるんじゃないかなと私は思います。『人間の条件』は読んだことがないのでハンナ・アーレントの著作や思想について論じることはできないのですが、「work(仕事)/ labor(労働)」にしても、workの欠かせない一部分としてlaborがあることを受け入れないで働くことはできないと思うよ。人間ってそんな常に100%本質的ではないし、生産的であることを否定することはできないでしょ。というかそんな”work”を私は信じない。それはやはり“二項対立”ではないんじゃないの?

 というか、『人間の条件』で「work(仕事)/ labor(労働)」を二項対立として挙げてましたっけか?活動的生活の三類型として①労働、②仕事、③活動、があるんじゃないの?

 もし二項対立、という点でそれを読み取ろうとするならば、資本家(ブルジョアジー)/ 労働者(プロレタリアート)の二項対立がそれに近いのかもしれないけど、資本家であろうが不労所得者であろうがアーチストであろうが食わずには生きられないわけだし、そして誰かに"labor"を押し付ける生き方が"work"であるとは思えない。

 

 この本の編者の山田航は、

 

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく

 

って歌を読んでます。この歌ではおそらくここで言われている「生き延びる」/「生きる」の対比が詠われていて、自分は「生き延びる」ためにペットボトルを補充せざるを得ない、ということを詠うことで「生きる」道を選び取ろうとしているのかなと感じました。でも、じゃあ、短歌が仕事になった今、それは「生きる」=work(美や真実を追求する生き方)ってことなんだろうか?「生き延びる」=labor(食い扶持を稼ぐ)ための仕事だってせざるを得ないんじゃないだろうか?

 

 平岡直子の作品では

 

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した

 

って歌あるけど、これは「食い扶持を求めて日々の生活に追われる生き方」「labor」について話した、って意味なんだろうか。つまりは二人で花火を見ながら就活の話した、みたいな(笑)。まあそういう状況を詩的に詠った歌と考えても十分素敵だと思うんですけど、私はどっちかっていうと、もっとなんていうかひりつくような「生き延び方」、つまり戦争の真っただ中にいるみたいな、今まさに命がかかってるみたいな、待っているのは花火じゃなくて爆撃なんじゃないかっていうような感じがしたんだよな。豊島ミホの『ハニィ、空が灼けているよ』を思い出した。

 

 この人に関して個人的な意見を言えば、書肆侃侃房出版の『ねむらない樹 別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』ってムック本に書いてた寄稿文がめちゃくちゃ面白くて、すごい頭のいい人なんだなって思いました。

 

そりゃ男はえらいよ300メートルも高さがあるし赤くひかって

 

なんて読むと、ウィットが効いてるなって思います。

 

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

 

も面白いよね。Born after 1970の歌人はみんな言葉が自由だなーって感じしました。

 

 

青のうちに早足になるぼくたちは何かのかたちに生かされていた (yuifall)

 

 

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