「一首鑑賞」の注意書きです。
68.写真に忘れられた海岸をきみもまた忘れるだろう どこまでも道は
(平岡直子)
砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた歌です。
一読して好きになって、クリックして平岡直子の作品だったので嬉しくなった歌です。「忘れてしまう」ということを知っているということが好きです。昔中田ヤスタカ系にはまってたころ、MEGの『OK』という歌が好きで、
想い出はいつのまにか
通りすぎるように
忘れていくけど
どんな君も
って部分の歌詞がすごく好きだったのを思い出しました。
ちょっと長く引用しますが、鑑賞文には
「写真に忘れられた海岸」。写真が写さなかった海岸、ということだろうか。その日の景に海岸はたしかに見えた、でも写真には、海や魚や波は写っていても、海岸そのものは写らなかった、写さなかった。この読み方がいちばん妥当であるとは思う。ただ、あるいは、写真の中に置いていかれてしまった海岸、ということかもしれないとも思う。それを写したことに満足して、肉眼で見た海岸そのものを忘れてしまったということ。もしくは、写真に撮るということそれ自体が「忘れる」ということなのだ、ということ。写真に撮るというとき、その瞬間は、記憶やナマの眼差しによってそれをとらえることをやめる、あきらめる、放棄する、ということだから。眼前の海岸と写真に撮られた海岸は、まるで別物であるということ。
僕はこのブレを、自分の誤読・見落としだとか、そもそも歌の助詞のあしらいが曖昧なのだとかいうようにはどうしても思えない。詳述は避けるが、その曖昧さをむしろ表現の核に据えるかのような歌が、平岡の歌には散見される。日本語の統語の規則をややはみ出すこと、それそのものが修辞として機能するような歌が平岡の歌にはあきらかにある。例えば〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉の「悲しいだった」であれば、いかにも作意として読みやすく、だからこそ積極的に読まれるけれど、それ以外にも注目すべき「はみ出し」は多いと思う。
こうありました。
私も、この「写真に忘れられた海岸」の読み方は意見が分かれそうだなと思いましたし、それは作品の作りが曖昧なわけではなく、わざと曖昧に取れる表現を使っているのだと感じました。個人的には、「私は海岸を写真の中に置いて(忘れて)きたけど、きみも記憶から落として(忘れて)しまうだろう」というふうに読みました。
世界には忘れられたことや知らないことの方が多くて、写真にしないから忘れてしまうのではなく、写真に忘れてしまうんだなって思うと何だかとても切なかったです。この「どこまでも道は」は人生のメタファーとして読みました。すごい平凡な読みだと我ながら思ったりしますが、忘れてしまう、それでも、あるいは、だからこそ、どこまでも道は続いていくのだと。
記憶から取り出す駅舎、暮れていく夏、見たことのない海岸線 (yuifall)
*paris match "OCEANSIDE LINER"