「一首鑑賞」の注意書きです。
67.あと何を買ったら僕の人生は面白くなり始めるのかな
( 辻井竜一)
買ったって人生は面白くならないよ、ってメッセージが透けて見える歌です。面白いなと思ったのは鑑賞文で、
こうした時代感覚を詠うときに、口語表現は力を発揮する。「あと何を買うべきわれか人生をより面白きものとせんため」なんて重々しくしたら、何のことかさっぱりわからなくなってしまう。最後の「~のかな」の不安そうな口ぶりに作者の若さが滲み、読む者の胸を詰まらせるのだ。もう右肩上がりに経済が発展する時代ではないこと、それに代わる新たなシステムを私たちがまだ見出せないでいることも、ひしひしと感じさせられる。
とあります。
「あと何を買うべきわれか人生をより面白きものとせんため」じゃ確かに分からんなー(笑)。この文語体だとイメージされるのが明治時代とか近代であり、「買う」ことで「人生がより面白く」なるという感覚にはそぐわない印象があります。
というか、「時代」という切り口で語るとしたら、結局のところ「買う」ことで「人生がより面白く」なっていたのは日本の歴史上昭和のごく一時期だけ、高度成長期に限られるのではないだろうか。
でも、「買う」ことで人生がわくわくしないのは、「必ずあるべき」もののハードルが上がりすぎてるせいもあるのかなって気がします。SNSで他人の生活が内側まで見えるようになって、他の人の持っている最高にいいものばかりが目に入るようになってるから。
だって、右肩上がりに経済が発展してきた頃の時代よりも、今の方がもっと素敵な家に住んで素敵な持ち物を持っているはず。それでも足りないんだよね。「買う」行為が人生をプラスにしてるんじゃなくて、マイナス(と思い込んでいる何か)を埋めるだけになっているような気がしてますが、私は社会学者でもなんでもないのでただの雑感です。
ところでこの人は「現代歌人ファイル」でも登場していて、山田航に
辻井の短歌の特徴は「過度な定型感」にある。完全な口語短歌であるが、五七五七七の定型をかたくなに遵守し、基本的には詩的飛躍も排している。
と評されています。ここで取り上げた歌は
あと何を 買ったら僕の 人生は 面白くなり 始めるのかな
と、確かに定型順守で句またがりもありませんね。詩的飛躍もないかもしれない。「あと何を買ったら僕の人生は面白くなり始めるのかな」=「何を買っても僕の人生は面白くなったりはしない」と、示唆されているメッセージはわりと直接的です。
それでも松村由利子の鑑賞文にあるように人の心を動かしたり、口語で短歌を詠むことの意味を考えさせられたりするのはとても面白いと思いました。短歌には、高度なテクニックやギミックよりも大切な何かが多分あるんだろう。
労働を排泄物に変えるまでそのプロセスを経済とよぶ (yuifall)