山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
フラワーしげる
きみはよく喋る人の形 ぼくは性欲だらけの豚の皮で 説教をはじめろ牧師
この人は『短歌タイムカプセル』にも登場しましたが、相変わらず訳が分かりません。この歌なんかはなんとなく分かるような気もしないでもないけど分かっていないような気もする(笑)。
おれか、おれはおまえの存在しない弟だ、ルルとパブロンでできた獣だ
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
こういうやつはなんらかの思想が感じられる一方で、
洗濯は静かにはできないことできみがいる窓のずっと向こうを雲雀と呼ぶ
この機は黒いヒタチだと痩せた声が言いエレベーター狩りの子ら去る
こういうやつはよく分からん。下のやつとか戦争のメタファー?とか考えたけど深読みしすぎな感もありますね。
フラワーしげるの短歌って、『短歌タイムカプセル』の時も面白いなって思った反面、こういうのって読み方が分からないというか…。もっと高尚に読めばいいのか、それともネタ的に読めばいいのかすら分からん。山田航は
破調のドライブ感を駆使したスピード型の歌人のように思ってしまうが、実は一首あたりの重さが段違いなパワー型の歌人が本質といえるのかもしれない。
というように評しているし、『橄欖追放』の東郷雄二は、フラワーしげるは「セカイ系」である、と評しています。一方、同じ『橄欖追放』内のコラムではこのような記載もありました。
選考会では加藤治郎が一位に推し、「不条理な現代に生きる人々の静かな反攻と苦い官能がモチーフで、メタファーの深度は群を抜いている」と強力にプッシュしたが、他の委員の議論は次の2点に集中した。昭和初頭と20年代に口語の長い短歌が登場したがそれとどうちがうかという点と、あえて定型を壊すだけの詩的必然性が感じられるかという点である。ラップを思わせるところがあるという選考委員の指摘にたいして、定型を流動化させるところにこの人のモチーフがあると加藤が感想を述べ、五七五七七の句の中にどれだけ情報量を増やすことができるか試みをしているのではないかと穂村は応じている。
また、別の記事では
ちなみにこのとき荻原裕幸が「短歌にたいする悪意を感じる」と選評に書いているが、本人はそんなつもりは微塵もなかったので、これを読んでびっくりしたという。
(中略)
また、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」の選評で穂村弘は、フラワーしげるの歌は結局は散文で、短歌に散文的資産が投入されているのではなく、散文に詩的資産を投入したものだと述べ、短い小説のように見えてしまうと締めくくっている。
とあり、このように、評価は人によってかなり分かれるようです。
ためしに、ネットで「支離滅裂な文章 メーカー」と検索して出てくるサイト
https://shindanmaker.com/785918
などに適当な文字を打ち込んで作ってみました。
私は風紀委員長ですが、穴掘ってますか?
フラワーは一体どんな存在なのかをきっちりわかるのが全ての問題の解くキーとなります
などと出てきます。
うーん、確かにフラワーしげるの短歌と比べるとドライブ感に乏しいことは認めざるを得ませんね。。ですが、自由律かつ支離滅裂な作品でいいのなら、AIに適当に28文字~35文字くらいで作らせた文章を50個くらい並べたらそれっぽい作品になったりしないのだろうか、とか考えたりもする。
この人はもともと西崎憲という小説家なんだそうです。小説のコードが持ち込まれている短歌、という意味で非定型なんだろうか。それにしても小説はもうちょっと前後の脈絡があると思うのですが、その辺の説明をすっとばして詩的圧縮をかけたとき、この長さが限界点ということなんだろうか。
正直、フラワーしげるの短歌は私には読み切れる気がしません。ですが、この人の歌の批評文、鑑賞文を読むのはとても面白いです。こういう作品をこういう風に解釈する、というそれぞれの思想みたいなものを興味深く感じます。
πが俺の座標を示し黒い箱が哲学になる日を待っている 畏れながら (yuifall)