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短歌の「私」 ②

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 

 座談会の内容に戻ります。最初の語り手は宇都宮敦なのですが、最初に「一人称・三人称」の議論があって、穂村弘

 

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

 

を例に挙げて、

 

(この)歌は主体は二人のうちの片割れでいいと思うのですが、それなのに二人を引いてみている視点も存在する。(中略)例えば、普段の生活のなかで明確なヴィジョンが見えるわけではないけど、自分の後頭部のうしろあたりから自分を見ている感じというのはあったりする。見えないけど見えるもの、わからないけどわかるものってのがある気がして、そういうのを一概に嘘として退けないほうがいいと思っています。

 

と言っています。

 また、この歌については後から斉藤斎藤

 

作中主体は眠るふたりのうちのどちらかなのに、カメラは幽体離脱したかのように三人称視点でふたりを撮る。

 

と言っています。

 

 うーん。いきなりよく分からない。まず、「嘘として退けないほうがいい」っていうことは、つまり、これらを「嘘として退ける」読み方があるってことですよね。この「嘘」は「虚構」としての嘘?それとも「偽り」としての嘘?

 「嘘」として読むためには、やっぱり短歌の「事実性」が前提にありますよね。だけど「短歌」=「ノンフィクション」という前提にない場合、そこに退けるべき「嘘」はあるのだろうか?自分の小説を「一人称」視点で書こうが「三人称」視点で書こうが勝手であるように、自分の歌の中で自分には知りようがないこと(他人の気持ちや自分の後頭部など)を決めつけて描写したとしても、それを「嘘として退けるか退けないか」をディスカッションする必要があるんだろうか。

 ていうか、この歌については2人ともが作中主体を二人のうちの片割れとしているのですが、そもそもそれが分からん。二人のうちのどちらでもない可能性だってあるのではないだろうか。天の視点(いわゆる三人称)と考えて読んでもいいのでは。というか私はそう読んでいたしそれで違和感をおぼえたことはなかったです。小説の地の文というかさ…。

 

紫に光る降車ボタンに取り囲まれたまま、ふたりは眠り込んでいる。終バスはその停留所にわずかな時間停車したが、誰も降りることはないままドアは閉まり、再び発車した。ふたりはまだ眠っている。バスは走り続ける。

 

みたいな感じ(駄文にすぎるな)。この場合、記載しているのは2人のうちのどちらでもないわけだし、それで成り立ちますよね?

 

 この後別の話題が続いて、しばらくして斉藤斎藤に話者が移ってから、再び「一人称と三人称」の話に戻るのですが、なんか、一つ一つ言っていることは分かるのに、全体にすると理解できなくなって頭が混乱しています。

(話者は斉藤斎藤ですが、箇条書きにしたのは私です)

 

・一人称的な「わたし」とは、「(私は)歯が痛い」とか、「(私には)花が悲しく見える」とか。じぶんの感覚や感情を主観的に述べるときの「わたし」です。

・三人称的な「わたし」とは、「私は千葉県出身だ」とか、「私は身長170センチだ」とか、私について客観的に述べるときの「わたし」です。

・で、短歌で、そして日本語で「わたし」を主人公にして書く場合、一人称的なわたしと三人称的なわたしをどう関係づけるかが問題になる。

 

ここまでは分かります。

 次に、花山周子が例として挙げた大口玲子の

 

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり

 

のようなタイプの「自己の加害者性に言及していく」歌に対して、

 

「私に世界がこう見えているのは、私の立場がこうだからに過ぎないのでは」と、三人称的なわたしの立場性への意識を研ぎ澄ませた歌ですよね。もちろん、じぶんの加害者性とか、じぶんがマジョリティ性の「下駄を履いている」感覚は重要ですけど、三人称的なわたしと一人称的なわたしを接続させすぎても息苦しくなるという危惧は、わかる気がします。

 

と言っています。

 これは、「一人称」的な「わたし」に世界がこう見えるのは、「三人称」的な「わたし」の立場がこうであるから、という意味合いで、一般的には、例えば「私には生きることが苦痛に感じられる」(一人称的なわたし)、なぜなら「私は病気である」(三人称的なわたし)、あるいは、「私には生きていることが素晴らしいことだと思われる」(一人称的なわたし)、それは「私は病気である」(三人称的なわたし)だからこそ、ということなのかな?それを接続させすぎるのは息苦しい、というのは、要は詩としての抽象度が弱まる、という意味合いで言っているのではないかと考えました。

 ですが、この「自己の加害者性に言及していく」歌に関するこの発言の真意がうまく汲み取れませんでした。

 花山周子はこの歌について、

 

たとえば、この歌では「二度言はせたり」という使役動詞を敢えて用いることで自己の加害者性に言及することになる。(中略)ここではそのような「わたし」にこそ刃が向けられている。そこにはっとさせられるものがあった。ただ、この刃というのは他者(この場合「ルーシー」)の主体性を奪取することを引き換えに成り立つところがあって、そこに私は息苦しさも感じていました。作者の必然というものがあってそれがこうした何かを代償にするようなぎりぎりの場所に歌を立たせているわけなのですが、時代の認識としてスライドしてしまうときに起きる問題というか。

 

この後は全然違う話になっていくので、該当の議論はこの辺だと思うのですが、「息苦しくなる」というキーワードから察するに、「この歌においては自己の加害者性、「わたし」に向かう刃は、他者の主体性を奪取することを引き換えに成り立つ」、つまり「わたし」が他者の主体性を奪取することで「わたし」を加害者にしている、という部分についての話なんだと思うんですけど、この文脈において、「三人称的なわたしと一人称的なわたしを接続させすぎても息苦しくなる」ってどういうことなの??

 

 この歌に関して言えば、大口玲子は日本語の先生で、外国人に日本語を教えているわけなんですが、ここでは

 

①自分は日本語の先生である(三人称的事実)(この歌の中では描写されていない)

②ルーシーに形容詞過去を教えている(三人称的事実)

③他のどの言葉(嬉しかったとか)でもなく「さびしかった」と、しかも二度も言わせた→他者の主体性を奪取することで成り立つ自己の加害者性(これって三人称?一人称?)

 

 斉藤斎藤の言う、「じぶんの加害者性」と「三人称的なわたしの立場性」を素直に受け取って解釈すると、この「さびしかつたと二度言はせたり」は「自分は加害者である」という三人称的描写ということになりそうですが、そうなると接続させる「一人称」的な「わたし」が分からない。この、「じぶんの加害者性」というのは、この歌においては「一人称的なわたし」なんじゃないかという気もします。だから、「わたしが言葉を教える」(三人称的事実)こととそれによって「わたしは加害者であると感じる」(一人称的心情)ことが直結すると苦しい、というか。

 一方で花山周子の論点はあくまで③に集中しており、「一人称のわたしと三人称のわたし」という視点での議論なのかどうかよく分からない。

 こんな感じで最初からいきなり理解につまずきました。

 

次週に続きます。

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