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関川夏央 『現代短歌 そのこころみ』 感想②

短歌は「物語」である

――寺山修司

 

の章の感想です。

 

yuifall.hatenablog.com

この続きです。

 

 

 この「盗作」議論に関連して、寺山修司が主張した、短歌は「私の告白」ではない、物語の「乗り物(ヴィークル)である」という考え、これも短歌の「私性」と関連して興味深く読みました。まあ、そもそも、短歌が「私の告白」「私の物語」であると思っている人は「引用」なんて手法を取らないのかもなーとか思ったりする反面、他人の言葉が自分の心情を言い当てているということも、あるいは自分は嘘つきである、という告白であるとも考えられますから難しいですね(笑)。その点に関しても引用します。

 

「ぼくは、ぼくの作者つまり寺山修司のなかに内在する第三の存在、もっと俗にいえば作中人物である。/仮に名づけられてロミイとでもしておこうか」(「ロミイの代弁」)

 寺山修司は自分の歌の作者は自分ではないといった。自分の中に住む自分以外の誰かだといった。

 普通、近代短歌は第一人称による表現とされ、従ってその歌われているところはいちおう「作者的真実」であると諒解されてきた(現在も大筋はそうである)。しかるに、自分は「私短歌」を歌わない、短歌はフィクションの表現手段にすぎない、と重大なことをコドモじみた口調で語ったのである。

(中略)

 この「ロミイの代弁」の稿中には、「rebellion」「ロマネスク」「フィクショナーレ」「ノン・フィギュラーティフ」「イマージュ」「モンタージュ」「メチエ」など生硬な単語が頻出する。だいいち「ロミイ」がわからない。痛い所を衝かれて早口で、かつ懸命に背伸びしつつ弁解するふうなのは気の毒である。しかし、短歌は「私の告白」ではない、物語の「乗り物(ヴィークル)」であるという考えは死ぬまでかわらなかった。

 彼は天性の「嘘つき」であった。「嘘」をつくために短歌をつくった。そしてその「嘘」はしばしば人を感動させた。彼によって現代短歌はかわった。かわらざるを得なかった。

(中略)

 しかし彼は、死と隣り合わせのような(注;ネフローゼ症候群による入院中の)生活を、現実の母親のこととともに一度も歌にしなかった。「冗談に自己を語りたがる」歌人への「はげしいさげすみ」の念が自らの告白癖を強くいましめさせたのだ、と本人は語っているが、杉山正樹のいうごとく、「少年時代から現実を仮象として認識しなければ」生きてこられなかったほど「心的外傷(トラウマ)が大きかった」ためであろう。彼にとって、病床生活も仮象すべきものであった。

(中略)

 「起こらなかったことも歴史のうち」とうそぶいた寺山修司は、生涯を通じて「嘘」をつきつづけ、その演劇においてもコラージュの方法をつらぬいた。

 寺山修司は、自身がそういうように「贋金づくり」であった。その意味で中井英夫が一九五四年に抱いた「贋の金貨ではないか」という危惧はあたったのである。しかしこの「贋金」は「本物」よりも好まれ、世界に流通した。そして、短歌に与えた影響の大きさも、その「贋の金貨」の美しさを誰もが否定できなかったからであった。

 

 短歌が「作者」の真実であるのかそうでないのか、ということについては短歌と「私」、というテーマで散々書いたので今回はこれ以上は深追いしません。

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 この「ロミイの代弁」は19歳の時の文章らしいです。一読して、現在の感覚で言うと「イタイ」文だな、って思う反面、19歳で既存の短歌の概念を破壊したわけですから、そりゃあ強烈に痛い人じゃないとダメだっただろうな、って気もする。同時代に生きていたらどう思っただろうなぁ、って考えましたが、今ですら同時代にリアルタイムに詠まれている短歌を批評することが不可能なレベルの読解力しか持ち合わせていないので、もし同時代に生きていても評価なんてできなかっただろうな。しかも、文章の内容としてはまるで「コンプライアンス」とか「インクルージョン」とか「アジェンダ」とかそういう単語を連発してる痛いビジネスマンみたいですが、思想としては死ぬまで変わらなかったわけですから…。

 

 寺山修司は現実の母親のことや病床生活を歌にしなかった、というわけですが、ここでは斉藤斎藤のいう、「一人称的わたしと三人称的わたしのせめぎ合い」はどこで起きているんだろうか。三人称的「作者」が描写されておらず、言葉もコラージュであれば、そこには一人称的「作者」は存在しないんだろうか。それとも、寺山修司の「心的外傷(トラウマ)」は一人称「わたし」として「ロミイ」と共有されていたんだろうか。

 

 「贋金づくり」の「贋金」は、コラージュの方法が貫かれた彼の短歌や演劇のことだけでなく、虚構の「わたし」も含む概念なんじゃないかと思いました。彼が短歌の中に描いた「ロミイ」は偽物だったけど、同時に「金」だったんだよね。すごく面白い章でした。

 

 

 

 ところで全然関係ないのですが近頃ヨーロッパミステリーにはまっていて、アイスランドでもデンマークでもスウェーデンでもフランスでも英語を話す気取ったキャラが登場し、周りに「英語しゃべんな」って言われてて面白かった(笑)。やっぱどこにでもいるんですね、そういう人。

 

 

 ちなみに『現代短歌最前線』で小島ゆかり寺山修司について論じていたので、その章の感想のリンクも貼っておきます。

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