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現代短歌最前線-小島ゆかり 感想5

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

小島ゆかり

 

 この人は末尾のコーナーで随筆という形で自分について語るのではなく、寺山修司論を書いているのですが、それがとても面白かったです。面白いというか、興味深いという言い方の方が正しいかもしれません。

 寺山修司について三点の謎を挙げて論じる内容です。これらは、いずれも(非常におこがましいかもしれないのですが)私自身の創作の問題とも響き合う形で理解でき、そして私でさえもそうだということは「短歌」という形式で表現することを選んだ歌人みな、そういう感覚を一種共有しているのかもしれないと考えました。

 

 まず一点目は、彼がなぜ文芸への出発点で短詩型を選んだのか、という問題です。小島ゆかりは、それについて(一部抜粋)

 

(作品を発表し始めた時の寺山修司は十五歳であり、)彼はあまりにも年少であった。年少であったからこそ、不定型の散文では表現できなかったのではないか。あらかじめ形式が与えられている俳句や短歌に、あえてそこに思いを込めていくことによってはじめて表現ということが可能だったのではないか。

 

と書いています。これはすごく自分も分かる感覚で、ある程度表現型に規制がないと表現できない時ってあるんだよな…。というか、散文を定型に納める過程で自分の生の言葉と距離が取れるので、便利だなと思います。

 まあでも短歌作れない時は全然だめで、31文字なんてまぢむり。ってなる(笑)。このブログ読んでくださっている方(特にgleeの感想を読んでくださった方)なら分かるかと思うのですが、私の表現ってもともと言葉多くなりがちで説明的でくどいし。だからこそ定型の規制はありがたいなって思うんですけど。寺山修司も、自分の表現の形式にある程度の規制が欲しかった時と、それをはみ出して広がって行った時期があったのかなと思いました。

 

 ちなみに北村薫の『北村薫のうた合わせ百人一首』という本の解説で三浦しをんが「自分は散文脳だから定型の読みがうまくない。短歌や俳句に加えて詩や小説も書ける人はもともと短歌や俳句から出発した人じゃないか」みたいな内容のことを書いていましたが、寺山修司はそのタイプですね。逆の、基本的には散文脳だけど短歌でも名を成してますみたいな人もいるのかもしれませんが、ぱっと思い浮かびません。両方作ったことある人はたくさんいるでしょうけど、両方世に認められるのはかなり高いハードルですね。

 

 二点目は、パロディの問題です。

 

これも彼が年少の表現者であったことと関わりがあるだろう。私たちはふだん歌を作るときに、心が先にあって、そこから何か言葉を見つけて歌を作るというふうに考えがちだけれど、本当にそうだろうか、もちろん、もっとも幸福なプロセスとしてそういう場合もあるが、多くの場合は、むしろ先に言葉と出会うのではないか。(中略)あらかじめ私たちの前にある言葉、古典や近現代の先人たちの作品に出会うことによって、出会わなければ発見できなかった心をそこに発見し、自分自身の表現として作り上げていくことができるのではないだろうか。本歌取りや題詠はその典型であり(後略)

 

と書かれています。これも、すごく、分かる。自分が、他の人の作品を読んでいて、ああ、この気持ち分かる…、私ならこうだな…、っていうパターンの創作ですもん…。まあこのブログ自体がそうなんですけど。基本全ての作品が二次創作なんですけど。

 

 寺山修司の場合は、カルチャーとサブカルチャーっていう二項対立もあったのではないかなと想像します。ここでは「マイノリティ文化」という意味ではなく、「日本のサブカル」という文脈でサブカルチャーという言葉を使いますが、ハイカルチャーは基本的には受け手側の教養やある程度の知識的素養を求めていて、寺山修司はそれを知った上でパロディ化することによって、どっちかというとオタク的な意識の共有というか、「分かるwww」っていう感覚に近いアングラカルチャー、サブカルチャーを生み出したのかな、と思いました。

 

 山田風太郎の『人間臨終図鑑』の寺山修司の項目では、

 

 寺山は「天才」にちがいなかったが、活動があまり多方面に散乱していたために、死後すぐに、それらの影響力はたちまち消えるだろう、せめて残るのは、彼が十八歳のときに作った、「マッチ擦るつかのま 海に霧ふかし 身捨るほどの祖国はありや」以下一連の『チェホフ祭』と題する短歌だけだろうと評された(ただしこれも、他人の俳句を短歌にアレンジした剽窃歌集であるが)。果たして如何。

 

と書かれています。これを「剽窃」ととるか、「パロディ」ととるか、「本歌取り」ととるかは難しい問題ですね。「二次創作」かもしれない(笑)。

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 しかし、短歌という文学形式そのものが、基本的に他人と表現がまったくかぶらないということはないのではないかと思っていて、その過去の表現からの積み重ねの面白さなんじゃないかな。

 

 吉川宏志が結社「塔」のインタビューで

吉川宏志インタビュー 「見えないものを見つめるために」 | 塔短歌会

 

(木下龍也の)この〈自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる〉は、「光まみれ」という表現に結構先例があるんですよね。やっぱり短歌っていうのはそういう先蹤というか過去の蓄積の問題があって、過去の歌を知ってるかどうかによって印象は随分違うんですね。だから、初めて現代短歌を見た人にとってこれはすごいなという歌があっても、短歌を長くやってる人だと、ああこれは過去にもあったなということがあります。歌会でもよくありますよね。だから、それはやっぱり伝統詩の面白さですね。過去の時間を知っている人の方が読み手としてはやっぱり強い。

 

と言っていて、知るか知らないかはともかく「ことば」は過去にもあって、それを知っていて使うか、あるいは知らずに使うか、それも含めて自分の表現かなって思いました。

 

 全然関係ないですけど、「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし」じゃなくて「マッチ擦るつかのま 海に霧ふかし」の切り方いいなってどきどきしてしまった。もともとの記載がこうなんだろうか。過去に文字空けせず引用していましたが申し訳なくなりました。

 

 三点目は、短詩型から(詩や散文ではなく)映画や演劇に向かっていった彼の表現の問題です。私は、これこそが彼を天才たらしめる所以かな、と思ってます。短歌の形式で何かを作ること、あるいはパロディ的表現は誰にでも(私でも)クオリティを問わなければある程度可能ですが、この「卓抜な構図と映像化によって、<虚構のわたし>を作り出す」表現は他の人にはできなかったと思うから。それについて、小島ゆかりは具体的な短歌の例を挙げて論じています。まあ詳細な内容については本を買って読んでいただきたいんですけど(笑)、寺山修司

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

という超有名短歌の解釈がすごく面白かったです。単純に読めば、「海を知らない」少女に「自分」が両手を広げ、こんなに広いんだよ、って教えてあげる場面が想像されますが、これについて

 

この歌にはもう一つ興味深い解釈がある。少女はまだ海を知らないけれど、もし彼女が海を知ってしまったら、海の圧倒的な魅力の前で、少年の存在はたちまち小さなつまらないものになってしまう。だから少年は少女に海を見せないために両手を広げて通せんぼする、というのである。

 

とあって、めちゃくちゃ面白いなと思いました。この場合「海」は「世間」とか「恋」とかそういう「少女」に見せたくない何かへのメタファーということになりますよね。

 この歌、(これ、どこかで読んだのであって私自身が考えた解釈ではないのですが、いつどこで読んだかすら思い出せないです。すみません)他にも読み方があって、この歌の中では「われ」=自分と他者である「少女」がいるのに、「海を知らぬ少女」と(本来は見えないはずの)他者である少女の内面が説明され、「麦藁帽のわれ」と(本来は見えないはずの)自分の外見が説明される、といった構造的な面白さについても何かで解説されていたのを読んだことがあります。どちらの読み方からも、小島ゆかりが言う

 

彼は鮮やかな映像化によって、多くの虚構の<わたし>をそれまでの私小説的な<わたし>から離陸させた。

 

という、寺山修司が映像作品に向かっていった動機、「虚構の<わたし>」が読み取れるなー、と感動してしまった。。改めてこの歌すごいな…。

 

 そしてこの本も、改めてすごいです。また第四次短歌ブーム来たら読み返すわ…。読み返すたびに発見ありそう。

 

 もはや自作とは言えないレベルのパロディ短歌作りましたが、今(この歌作ったとき)の本心でした。

 

 

夢破れて山河あるらむ北上の岸辺に泣きて我れに五月を (yuifall)

 

 

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