山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
西勝洋一
自らをつねに〈未完〉とおもうべし澄みし水辺のわがナルキソス
冒頭にこの歌が引用されるので、耽美、青春、前衛、とかそういう系統なのかなぁ、と思いながら読み進めました。
廃園に少女ともない夏逝くと見ている誰も知らない街を
のように、「少女」を詠った歌が多数引用されます。しかし、これは単純な相聞ではなく、この人の「少女詠」には政治的側面があると解説にはあります。
塚本邦雄や岡井隆が先導した前衛短歌は、単なる短歌という一文芸ジャンルの革新運動ではなく、左翼的性格を持った政治運動というところに本質があった。左翼勢力の敗北と共に前衛短歌もその政治性が薄まっていった。ある意味で、前衛短歌はその本質は真を理解されることがないまま現代短歌を塗り替えていったといえる。年少の安保世代である西勝は、「未完の葡萄」という歌集で前衛短歌の「政治的末期」を少女像に託し、過ぎ去った青春の追憶というかたちで擬装して描写した。この時代における政治的理想は、少年が少女に抱く幻想のようなものだった。
以前、『短歌タイムカプセル』の岡本隆の項目の感想を書いた時にリンクを貼ったのですが、『短歌のピーナツ』というサイトで岡本隆評論の解説がされており、その時に「前衛短歌」は確かに政治運動そのものと密接にかかわっていた、と書かれてありました。
ニューウェーブとは何か、という議論の時に、ニューウェーブは西田政史、加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸の四人である、という定義に対して千葉聡が「女性歌人は含まれないのか」と発言してかなり議論になったようなんですよね。前衛に関しては、「はてなブログ」のタグ検索によると
主な歌人は、岡井隆、塚本邦雄、寺山修司、葛原妙子、中城ふみ子、春日井建、浜田到、石川不二子。彼らは全て中井英夫によって発掘された。
とあり、男女問わず含まれていますが、一方でムーブメントの中心にいたのは塚本邦雄、岡本隆、寺山修司、それに春日井建あたりであって、葛原妙子などはいわゆる「女流」というか、別枠で捉えるような向きもあります。「この時代における政治的理想は、少年が少女に抱く幻想のようなものだった。」という一文を読んでふと思ったのですが、なぜ「女流」を分離するのか、と考えると、そのムーブメントは「少年が少女に抱く幻想」だったから、なんだろうか。女性は少女に幻想を抱きようがないわけだから…。
同じ『短歌のピーナツ』というサイトでは、ゲストの寺井龍哉が阿木津英『短歌のジェンダー』を取り上げて、
短歌は、ナショナリズムに結びつきやすいものであり、旧弊なジェンダー観に縛られやすいものであり、他者を傷つけ、抑圧しやすいものである。
そういうことを考えてから、私は短歌を作りはじめたでしょうか。
と書いています。短歌とナショナリズム、そしてジェンダー論は切り離せないものなのかもしれません。
雪重き不毛の土地に在りながら青年ら乱婚を夢みるばかり
これは長く過ごした北海道の僻村での光景を詠んだ歌のようですが、この場合の「乱婚」も何かのメタファーなんだろうか。
鳴る海の涯知らざれば少女の眼かがやき我らたそがれてゆく
疾走ののちの少女の汗まみれ揺蕩のわが六月越えて
第二歌集の「覚書」には
「『未完の葡萄』後半部をつつんだあの明るい断言の日々が、急に気恥ずかしく思い返されてきたのである。発語の困難さを自覚したのはそのような時からであり、それが時代が失語の夕暮れに向かって歩みを始めた時と重なっていたことを知るのはもっと後になってからである。」
とあるそうです。そう書きながらもまた「少女」を詠うのはどういう意味なんだろうな。
青春期の「明るい断言の日々」を「気恥ずかしく思い返す」のは普遍的な感情だと思うんです。そして自覚するほどに「発語の困難さを自覚する」のも、「失語の夕暮れに向かって歩み始める」のも、みんな、青春を失ったらそうなるんじゃないかな。だから「我らたそがれてゆく」は分かるんだけど、この少女の眼のかがやきは一体何を見ているんだろうな、って考えました。自分は海の涯を知っていて少女は知らない、ということなんだろうか。
三枚のレンズ隔てて見交わせり 受胎以前のアッペンツェラー (yuifall)