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現代歌人ファイル その127-真鍋美恵子 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

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真鍋美恵子 

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捕へたる蜘蛛をかまきりは食はんとす優位なるものの身の美しく

 

受身なるものの素直な態(さま)にして給油されゐる黄の車あり

 

 前回『短歌とジェンダー』について少し触れましたが、この人は「女人短歌会」という会の発足に関わった人らしく、こういう歌には何となく男性優位社会への批判的な姿勢が感じられます。「女人短歌会」は、解説によると

 

 葛原妙子や長沢美津らが中心となり、女性だけで構成された超結社の歌誌である。(中略)単なる女性歌人の集団ではなく、戦後の新しい女性の生き方を志向するグループであったといえる。

 

とあります。

 

 この「女歌」ってすごく難しい議論です。 前回引用した寺井龍哉による阿久津英『短歌のジェンダー』評では、

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阿久津英が「女人歌人会」を擁護した折口信夫の発言を引用しています。

 

折口信夫の女歌論を女性歌人にぶつけるとどうなるか、というような関心があったのではないかと思われますが、そこで折口は、万葉集などには男と違う女の歌というものをはっきりとたどることができる、それは古代の歌垣という生活文化の中から出てきたものだ、というようなことをあらまし論じます。そして、眼前の女性歌人たちに向かって、あなたたちが今、女の歌だと思っている子供に乳をやる歌とか、嫁入りの歌、子育ての歌、家事の歌なんていうのは、それはじつは男の歌なんですよ、そういった現実的な素材によるのではない、男とは違う女の歌といったものが歴史上にはあったのだから、男の歌に追従するばかりではなく、どううたったら女の歌になるのか、それをあなたがた、お考えなさい、といわば挑発したわけです。

 

それに対して、阿久津英の対談相手である上野千鶴子が反論しています。

 

何が女歌を定義するのかの次に、誰が女歌を定義するのか、を考えて見ましょう。この中には、評価も入っています。これは女歌だ、これは女歌ではない、という判定の特権を行使しているのは、折口信夫本人にほかなりません。(中略)

女が女歌をうたって見せれば、よくやった、と力のある男から頭を撫でていただけることでしょう。そうすればひき立ててもらえ、活躍の場が広がり、知名度も上がるでしょう。他方で、女が女歌をうたわないという選択をすれば、男のようだといわれ、ペナルティを受けることすらあるでしょう。「女歌とは何か」を決めるのは男ですから、女が女歌からはみ出したときには、女はバッシングの対象になります。「女の(﹅)(つくる)歌」と「女歌」とは違います。

 

そして寺井龍哉はこう書いています。

 

折口信夫本人の意図はともかく、彼の女歌論が単に「励まし」であったのみではなく、「罠」でもあったという指摘はたしかなものでしょう。

折口信夫本人は、自分の歌について、「女歌」である、だの、そうでない、だのと言われることはありません。

彼の歌そのものは、「女歌」云々の議論に巻き込まれることはないのです。

 

 

 私は、正直、「男歌」「女歌」がどういう定義でされているのかいまいちピンと来てないです。ラグビーとか車とか詠えば「男歌」で、授乳とか子育てとか詠えば「女歌」ってわけじゃないですよね。「アララギ」が女歌を抑圧した、とは言いますが、じゃあ正岡子規の病床詠は「男歌」で、中城ふみ子の病床詠は「女歌」なのか?

 でも安易に分からん、と言って済ませられないと思うのは、やっぱり明治以降現在に至るまで、女性歌人が歌壇で抑圧されてきたという現状は否定できないと思うからです。私のように歌壇にいない人間でさえ、ちょっとググれば(現代でも)歌壇で「女性である」というだけで受けるハラスメントの実情などが引っかかってきます。

 すでに優れた評論などはたくさんあるでしょうし、いずれもっと「短歌とジェンダー」については勉強したいです。

 

 この人については、解説にこうあります。

 

 しかし「女人短歌」のなかでは真鍋は比較的珍しい作風の持ち主だったのかもしれない。『現代短歌の鑑賞事典』では、「妻として母として平穏な家庭生活を送った人だが、家族を詠んだ歌はほとんどない」「女性歌人たちが“人生のドラマ”を実感を込めて詠んだ時代にも、真鍋は一貫して私的な境遇を表立てない作風を通した」と評されている。真鍋はある種のモダニストであり、女性が一人の人間として感情をあらわにすることが新しい女性像のあり方という考えには与しなかったのだろう。それよりも優れたメタファーのセンスによってイメージの世界を構築し、社会に隠された闇を描きだすという方向性をとった。

 

そのかげに犠牲者あるはわが知れる祝宴に白き海老の肉切る

 

血のにじみきたれるものをみな入れつ冷蔵庫のかがやく扉(と)の面(おもて)あり

 

 女が住まう「厨房」で、祝宴のかげで血を流して犠牲になったものを詠むわけです。毒があるのにセンスがいいな、と感心しました。感心、ってなんかいい表現じゃないですね。「尊敬」に近いです。

 

桃むく手美しければこの人も或はわれを裏切りゆかん

 

うつくしき夜となるべし果実油の瓶におびただしき指紋つきゐて

 

みたいな歌もすごく好きです。

 

 前にも書いたような気がしますが、次に短歌のムーブメントが来るときはどういう歌が主流になり、どういう人たちが牽引するんだろうか。また男性たちが主体となっていくのか、LGBTQとかフェミニストみたいなジェンダー絡みの政治的集団になるのか、それとも全くのジェンダーレスになっていくのか。どういった方向性が文学にとっての進歩なのかな、って考えたりします。

 

 

肉体を喰い破りたき思考ありヒトの鋳型が女だとして (yuifall)