いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログです

短歌の「私」 ⑬

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」 ⑭ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 この後、座談会は「女性の歌」とか「短歌の枠をはみ出す歌」みたいなあたりに話が進んでいきますが、そのあたりはそれほど今自分の中で興味があるテーマではないので、そうなのかーとか思いながらあっさりと読みました(笑)。

 (というよりも、フェミニズムとかジェンダー論とかそういうあたりまで踏み込んだ内容ではなかったので、そういうのはまた別に考えればいいか、と)

 

 最後にちょっと、やっぱり、「一首で読むか連作で読むか」ってところに少し触れたいんですけど、もしかしたら歌人のみなさんって基本的に歌は連作とか歌集で読むから、つながったひとまとまりの歌の中の一首であること前提の討論なのかな?とも思ったのですけど、ディスカッションされているのは個々の歌なんですよね。その辺はどうなんだろうか。

 だって、一作の向こうに「確かな一人の人」あるいは「作者本人」が透けて見える作りになっていたとしても、いくつかの歌を並べた時に、透けて見える人間が同一人物かどうか微妙だったらやっぱり戸惑うんじゃないかなぁ。

 

 例として自作の歌を挙げますと、

 

マスクしたゾンビがうろつく死んだ街もちろん僕もゾンビの方だ

空き地にはたんぽぽの花咲き乱れ距離を保った井戸端会議

一時間以内に迷子にしてほしい青信号だけ辿ってくから

Such a small world (世界って小さいでしょう) POKETALKよりもBODER超えて病魔は

気道上皮よりも思考に寄生して言葉が人を殺していくよ

2メートル離れてきみは立っていて Where do the masks go? (キスするときはこれ、どうするの?)

前を向き黙して食べるアクリルの檻の中では美食も餌か

上半分だけの陽灼けを置き去りに雨最終便 さようなら夏

 

は全部コロナ禍の歌なので(うまいか下手かは置いておいて)なんとなく連作性があり、「僕」「きみ」という人称も相まって、(作者を全く無視するとすれば)若い男性が主人公なのかなって感じがします。

 

 だけど、同じく8首並べても

 

がんばれない まだがんばれる 花弁の数など予て知りゐしものを

立ちこぎで飛ばしてみろよJimmy Choo俺のもんなら月をやるのに 

永遠を死までの距離と見做すとききみの若さを静かに憎む 

インフィニティ・プール、打ち上げ花火、ねえ、言葉で確かめ合わなかったわ 

鳴りやまない電話 優生思想なら食肉にさえなれない僕は 

石板の文字伝ふごと航跡はありしや環指短きひとよ

折り紙はきらい蝉とか大嫌い わたし 更新して再起動

ステージでJohn Legendを弾くきみはぼくを見てたね、彼女じゃなくて 

 

という感じで全く一貫性のない歌を並べられると戸惑うのではないでしょうか(笑)。一つ一つの歌の向こうにはなんとなく「わたし」が見えるんだけど、まとめると分からんっつーか、明らかに同じ人じゃねーだろ、みたいな。一人称も二人称も統一感ゼロだし、口語と文語さえ一致してないし、男だか女だかも分からんしセクシャリティも不明です。

 こういうのはどう考えるべき?そもそも並べるなって感じ(笑)?あと、作者(私ですが)のプロフィールとの一致性が全く不明な場合はどう読めばいいの?

 

 これに関しては、自分の作品なんでぼろくそ言いますけど、はっきり言ってもし歌集だったら最低のレベルで読みにくいというだけで、そもそもある程度の人格の連続性がなければ人に提示しうる作品にはならないのかもしれない、とも思います。要は斉藤斎藤が「歌詠み」にはなれても「歌人」ではない、と断定したような。

 まあもし自分が今までの作品をまとめようと思ったとしてもこんな並べ方はしないでしょうが、私が「歌人」でないのは事実ですので、例えとしては適切でなかったかもしれないです(これほど作風がばらばらな歌を平然と載せるのは私が「歌人」ではないからでもありますが、作風がばらばらだから「歌人」でない、というロジックには賛成しかねるので)。

 

 しかし、全く他人の作品であると仮定してこれらを一連のものとして眺めた場合、この人は「作者性」を消滅させたいのかな、って思うような気もする。『現代短歌最前線』読んでて、もちろん歌集でなくてアンソロジーなのでどこまで本人の意向に沿った歌の並びなのかは分かりませんが、渡辺松男の歌の一首一首のテイストの違いに驚いたんですよね。ある一ページの上の段をそのまま抜き出しますと、

 

子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり

まっしろき秋のいかなる隙間から子らあらわれて丘を走るや

おばあちゃんお寺なんてみな嘘ですねミトコンドリア・イブのおばあちゃん

<ぼく>を意図で草木につなぎとめておく風のある日は気持ちよいから

ほ・と・け 冬にはとても気になるの野へ宇宙から来たのねあなた

どっぷんどっぷん自動車流るおとことしてのみ込めぬものばかり流るる

生を鈍き音たてながら行く父よごんずいごんずいごんずいの花

 

という感じで、隣り合った歌同士でも文体がちがったりしたんですが、特に違和感もなく面白く読みました。

 

 ずっと短歌の「私性」に拘ってきたことの一つの理由として、作者が作中主体でない場合、どこまで連続した一つの人格である必要があるのか?を知りたかったというのもあります。仮に、一連の作品が一貫した人格でなければならない、そのように提示されなければならないとすれば、自分の短歌の主人公が常に自分であればある程度の人格の連続性は担保されるだろうけど、そうじゃない場合、ある一貫した人格を主人公に据える必要がありますよね。小説だったらそれは常に普通に行われている試みですが、個人的には、そんなことできるんだったら小説書くよ、って思ったりするんですよね。

 例えば連作で15首、とかだったら当然一連の人格であってほしいけど、歌集で350首、とかだったらさー、そこまで一連の人格で創作できるんだったら小説書くわ、ってならないかなぁ。私はなります。てか、そこまで一連の人格を保って創作できない(笑)。だけど主人公がずーーっと自分だったら、って考えるとそれは気持ち悪い(笑)。

 斉藤斎藤は、短いから嘘もつける、それではだめだ、と批判していましたが、あの短さ、単発単発で背景を濃く書き込むことなしに嘘をつけるからいいんじゃないの、って思う気持ちは私にはある。

 

 次週で終わります。

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