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短歌の「私」 ⑭

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」 ⑭ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 前回の続きですが、一貫した人格、という他に、文体の問題もあります。⑪の回で、斉藤斎藤が歌集『人の道、死ぬと町』で笹井宏之の作歌姿勢を非難している、と書いたのですが、例えばこういう感じです。

 

そもそも私は、笹井さんのよい読者ではなかった。

(中略)

短歌は短い。三十一文字だから、ボロが出る前に書き終われてしまう。一定の技術があれば、ほんとうに思っていないことでも、ほんとうらしく書けてしまうものだ。一首一首をそれなりに仕上げることは、実はそれほど難しくない。

だから大切なのは、何を書くかではなく、何を書かないかだ。

歌詠みが歌人となるためには、それなりに書けてしまう歌を、文体を、棄てる作業が必要だ。他人に書ける歌は他人にまかせ、自分が最も力を発揮できる文体とモチーフを突き詰めてゆくことで、ひとりの歌人が誕生する。

でも笹井さんは、新人賞に応募し、これから歌集をまとめようかという大事な時期に、ラジオやらブログやらへの投稿を続けていた。しかも、選者の好みや媒体の傾向に合わせ、作風を使い分けてまで。

 

そして、作風を変えた歌としてこのような作品を取り上げています(いずれも笹井宏之の歌です)。

 

「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい

(歌葉賞の時の笹井宏之の歌。斉藤斎藤は、笹井宏之ではなく宇都宮敦を推したと書いている)

それはもう「またね」も聞こえないくらい雨降ってます ドア閉まります

(選者は枡野浩一

三日月の凍る湖面にアントニオ猪木の横顔があらわれる

(選者は笹井公人)

冬ばつてん「浜辺の唄」ば吹くけんね ばあちやんいつもうたひよつたろ

佐賀新聞の読者文芸欄)

 

このような作歌姿勢について、

 

笹井さんの詩才は疑っていないですが、

歌詠みとして「大人」になっていない人が入ってきたら、

それなりに手加減せざるを得ない。

 

というように当時(笹井宏之の生前)言っていたと書いています。

 

 これは、分かるなって思う気持ちと、別によくね?って思う気持ちがある。分かるって思うのは、多分斉藤斎藤は、依頼されて媒体に合わせて描くイラストレーターではなく画家であれ、って言ってるんだと思うんだよね。描くモチーフを統一し、自分にしか出せない絵のタッチで描く。ファン・ゴッホピカソ、モネ、マティスルノワールレンブラント、ダリ、モディリアーニなどなど、みんなぱっと思い浮かぶ作風とかモチーフがあると思います。ピカソみたいにキャリアの途中からタッチが変わった人も多分たくさんいるけど、1枚1枚全然違う作風で描く人ってぱっと思い浮かびません。

 逆に、別によくね?って思うのは、もしかしたら私が散文脳だからかもしれない。たとえば桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』なんて、祖母(歴史ファンタジー風味)、母(ヤンキー小説)、私(現代)で全然文体が違うし、塩田武士や宮木あや子みたいにシリアス寄りの作品とコメディ寄りの作品で全然文体を変えてくる作家さんが私は好きで、短歌だって書きたいモチーフに合わせて文体変えて嘘書いたっていいじゃんって思ってる。だから、自分が全く思ってもいないことを、毎回モチーフや文体を変えて書いて何が悪いの、って。

 それは「歌詠み」であって「歌人」でないと言われるかもしれないけど、私生活を切り売りし、事実と本心を「自分の(統一された)文体」で描く者だけが「歌人」であるなんてロジックには疑問を感じます。現に、私は笹井宏之の歌がどれも好きだもん。事実であってもなくても、本心であってもなくても、文体が全く統一されてなくても。(特に文語の歌とかすごく好き)

 もしかしたら笹井宏之が長く生きていたら、同じ文体を突き詰めて詠う「歌人」になっていたのかもしれない。でも、岡井隆のようにしょっちゅう文体やモチーフを変えながら進化し続けるような歌人もいるわけだし、多分必ずしも事実だけを詠っている人だけではないのではないだろうか。

 

 短歌は「イラスト」だって考え方はどうかなぁ。一枚絵だからといってそこに全くストーリーがないというわけじゃないんだし。一枚一枚に描かれているキャラクターは同じ人(作者自身とか)かもしれないし違う人かもしれないし、一枚一枚のタッチは同じかもしれないしもしかしたら違うかもしれないけど、まとめれば画集になり得ますよね。特にタッチを合わせたイラスト、登場キャラクターが同一のイラストをつなげれば漫画にもなりうるし。そういう風に世界観を構築できる人もいると。そういう発想だといかがでしょうか(笑)。

 

 この座談会ではそれほど「一首か連作or歌集で鑑賞するか」については言及されていないのですが、座談会の途中、詞書について指摘された斉藤斎藤がこんなことを言っています。

 

最初に詞書を使ったのは、「今だから、宅間守」という連作で。あの連作は一首ごとに話者が変わるので、話者を切り替えるために詞書を入れました。歌だけの連作は基本、どの歌も同じ主人公と見なされて、一人のわたしの一定の時間、つまり「人生」が発生してしまうので。

 

 なんか後付けの理由だけど、アンソロジーが好きなのって、ある歌と出会うときに、「人生」とか「作者」から切り離された一首として出会いたいのかもしれないとも思いました。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、第一楽章だけが好きだっていいじゃん。「どこかで聞いたクラシック」でくるみ割り人形の花のワルツに出会ってもいいじゃん。まあ、漫画として出したんだからイラストじゃなくて漫画として読んでよ!って思う気持ちも分かりますし、だけど顔だけでキャラ萌えが発生するように(作中でほぼ絡みないキャラ同士の顔カプとかね笑)、いろんな読まれ方はね、否応なしに、します!これは長年二次の庭にいた(今もいる)私は断言します(笑)。

 そうか、本歌取りだけじゃなくて短歌の「読み」を読むのが好きなのは、二次オタだからか(笑)。そして作者に関連した読み、全然関係ない読み、文体やリズムの読み、歌集の中でこの一首がどの位置を占めるのかという読み、ただの妄想(私の書くことはだいたいこれ)も含めて面白いし、これって二次創作の楽しみ方かなって今気づきました♡

 まあ作家や漫画家の中には二次創作絶対反対の人もいますから、歌人の中にも、そんな読まれ方はしたくないってこともあるはずで、それを否定できるとは思わないけど、作品を読んだだけではそんなことは分かりっこないから難しいところです。

 

 最終的なまとめとしては、

結局、作者を知らずに作中の「わたし」が読めるのかどうかはよく分からなかったが、その時その時で作品に真剣に向き合い、後から歌集におけるその一首の位置づけや、作者の背景を知ったり、他の人のすぐれた読みに出会ったときに、それを受け入れて自分の読みをさらに高めればいいのではないか

という結論に達しました(笑)。我ながら、こんだけ書いておいて、この座談会を読む前と読んだ後であまり発想が変わっていないわけですが…。

 あと、多分、私のような素人は、基本的に肯定的な読みから入ればいいのかなと。否定するには、膨大な裏付けがいりますから。ただし、何となく嫌だ、ということはあるのでそれは仕方ないかもしれません(笑)。でも、何となく好きじゃなかった歌が、後から自分の知識や経験が増えることで好きになるということはよく経験されるので、何となく嫌だと思ったら時間と距離を置いてみるのがいいのかも。

 色々読んで、自分で感じてみればいいのかなって思ってます。みんなが自分と同じような考え方はしないだろうけど、もし自分の短歌がどこかで超誤読されてたら、けっこう楽しいんじゃないかなって思ったりする。あ、そんな読み方あるんだね、って。だから、私も誤読を恐れず色々読んで感想をこうやってアウトプットしていこうかなと思いました。

 

終わり。

 

ちょっと続きました。

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