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短歌の「私」 ⑤

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 そして次がかなりの個人的衝撃だったのですが、

 

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった (吉川宏志

 

について、「愛を告げられた」という解釈と「愛を告げられなかった」という解釈が半々だそうです。えー??マジかよ…。これ、今回この本読んでて一番の衝撃でした。

 

 私の解釈では、恋をしているんだけど打ち明けられない相手もしくはプロポーズしたいんだけど打ち明けられない彼女と2人で花水木の道を歩いている間、言おう、でも言えない、って迷い続けてて、会話の切れ目のタイミングとかを狙いながらずっと歩いてて、その道が終わるところでいいタイミングが来て、ようやく「あのさ…」みたいな。もちろん打ち明けたんですよ。そう思ったんです。「長くても短くても愛を告げられなかった」だから、「自分にとって覚悟を決めるのにちょうどいい長さだったから告げることができた」と解釈してずっと読んできたんです。

 ところが、「結局愛を告げられなかった」派が50%もいると。これは、どう読めばそうなるのか分からなくて、マジで苦しみました。で、「告げられなかった」前提で考えたところ、「花水木のあの道は適切な長さだったが愛を告げることはできなかった。きっと、あれより長くても短くても告げられなかっただろう」あるいは「花水木のあの道があれより長かろうが短かろうがどっちにしろ結局愛を告げることはできなかった」ということなんだろうか?

 

 これについては、

 

土岐友浩さんが砂子屋書房HPの「月のコラム」で言及されてます(「リアリティの重心」、2020年1月1日)。

 

とあるので、早速ググってみました。

sunagoya.com

該当部分の一部を引用しますと、

 

「告げられなかった」という否定を用いて、実際には告げることができた、ということを示唆しているのは、愛の告白という個人的な事柄の報告に対する照れがあるからだろう。ここに表現としてのポイントもある。(中略)「長くても短くても」には、「言いたい、でも言えない、でも言わなければ」と、その道を歩いている間中ずっと逡巡していた気持ちが込められているのである。(東直子『愛のうた』)

 

実を言うと僕は「長くても短くても愛を」あたりの字余りが引っかかって、「持って回った感じだなあ」「好き嫌いが分かれそう」と思っていたのだけれど、そこに主体の「照れ」や「逡巡」を読みとった東の評を読んで、はじめて一首がリアリティある作品として立ち上がってくるのを感じた。

ところが、だ。

鑑賞の前提である「否定を用いて、実際には告げることができた」という部分が、いまの若い人には共有されず、愛の告白の歌のはずが、愛を告げたいのに告げられなかった歌として、どうやら読まれているのだという。

その噂を、僕は歌人の集まりで何度か耳にした。他にも、昨年十二月に西南学院大学で行われた俵万智松村由利子の講座で、この問題が取り上げられたようだ。講座に参加したある「二十代前半の女性」は、やはり「愛を告げなかった」と読んだらしい。(*2)

告白の場面と読んで誰も疑わなかった吉川の歌に、いま、告白はできなかったという新しい解釈が登場し、広まりつつあるのはなぜか。

それは若者の読解力の問題だろうか。

そうでなければ、何か大きな、とても大きな変化が、短歌に起きているのではないだろうか。

 

 さらにここで引用されている(*2)の引用元にも行ってみました。

*2 「塔」短歌会会員、宇梶晶子氏のブログ

 

こちらも一部引用しますが、

sugarless21.blog.fc2.com

 

この歌を「愛を告げなかった」歌として読まれていることも多い、ということが挙げられました。

たいそう驚きました。

さらに、一緒に来ていた二十代前半の女性も「告げてない」と思う、と。

帰宅後、子達にどう思うか聞いたところ「告げていない」のでは、と。

よし、と思って自分の中で何度もこの歌を反芻して「告げていなかった」、に持ってってみることを試みました。

…う~ん………

すごく気になって、娘に友達の何人かに機会があったらちょっと聞いてみて、と言っていたところインスタグラムで聞いてくれていたようでした(いつもは私の言うことはあまり聞いてくれないのに感謝!ありがと!)

質問を見てくれた人が47人。

そのなかの何人が回答したかは分かりませんがミニミニ参考として。

結果

「告げた」46%

「告げなかった」54%

ということです。

 

げっ。なんと過半数が「告げなかった」派なのか。もう自分の読み方自信なくなってきたよ(笑)。

 

 で、この歌がなぜ短歌における「わたし」の特集で取り上げられているかというと、

・「愛を告げたわたし」と「告げられなかったわたし」という二通りの読み方ができる、無限遠点上の「わたし」

という、短歌の中の「わたし」という問題と、もっとメタ的な問題として、

・読者の読み方によって変わり得る「わたし」

という2点があります。

 宇都宮敦は

 

この歌に関しては「愛を告げられなかった」と「愛を告げられた」という二通りの読み方ができると話題になりましたが、この歌も、無限遠点に立つ詩的強度の高い「わたし」を感じます。すなわち、つどつど読むとどちらかの可能性しか見えませんが、無限遠点にどちらの可能性も含む「わたし」がいる。

(中略)

告げたと思っていましたし、「告げられなかった」可能性については全然考えには上がらなかったです。ただ、当時から単純に歌の甘やかさやうまさから受け取れる以上の「わたし」みたいなものは感じていたと思っていて、最近の議論を聞いて、「告げられなかった」可能性が見えない平行線として当時から機能していたのかもと思い始めた次第です。

 

と言っています。

 

 ちなみに「月のコラムーリアリティの重心」で土岐友浩は

 

冒頭に紹介した花水木の歌を読み直してみよう。

この一首、特に「長くても短くても愛を告げられなかった」という下句を読むとき、若い読者はまず「長くても愛を告げられなかった」「短くても愛を告げられなかった」少なくとも二パターンの主体の姿を思い、その想像にリアリティの重心を置くために、何割かの読者は「どのようにしても、この愛は告げられなかった」と結論するのではないだろうか。

現代的な想像力のあり方が、短歌を、いま、どのように変えつつあるのか。ここで引用した作品の多くが「愛」の歌であることは、無視するべきではないだろう。短歌の変化とは、言うまでもなく社会の変化と人間の変化、その投影なのだから。

 

と書いており、「Sugarless」宇梶晶子は、

 

この出来事で私が今思っていることは

・「読み」と「読解力」の違い

・「読み」や「読解」は「読み」や「読解」よりも先にその人の考え方がきてしまうものかもしれない

・考え方というのは今の時代の生き方に影響されるかもしれない

など。上手くまとまっていないし当たり前のことかもしれないけれどそんなところです。

(この記事に対するコメントへの返信として)

どこをどう考えても告げてるでしょ!と私もびっくりしました。驚いてずっと考えているうちにそう読めなくもない、とはなってきました。でも私にとっての自然な読みは「告げた」です。

 

と言っています。

 

 これは、吉川宏志が仕掛けたレトリック上の問題なのか、それとも読解力の問題なのか、本当にこの読み方は「時代の変化」によって変わったのか?なんか、自転車に乗れるようになると「乗れなかった自分」には戻れない、という話がありますが、今回まさにその状態というか、もはや「告げられなかった」という読み方を知らない自分には戻れなくなってしまいました。「どのようにしても、この愛は告げられなかった」って土岐友浩の言葉かっこよくてなんかそれでもいいやって思ってしまった(笑)。

 

 でもやっぱり、ごく自然に読めば「告げられた」んだと思うんだけどなー。映像浮かぶもん(笑)。ずっと歩いてて、最後に「あのさ…」って。そこで映像途切れるのね(笑)。

 あー、でもそうか。私は、いったんこのシーンが終わったあと、ラストで彼女の左手の薬指に指輪が…みたいな感じのベタな映像イメージがあったので(笑)、当然「きみが好きだ」とか「結婚してほしい」とか言ったんだと思ってたんですけど、「どうしたの?」「…いや、なんでもない」ってなった可能性もあるんですよねー。面白いですね。

 

 次週に続きます。

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