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短歌の「私」 ⑩

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ③ - いろいろ感想を書いてみるブログ

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短歌の「私」 ⑫ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑬ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑭ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 次にその「あなたです」問題が語られるのですが、斉藤斎藤の言っていることが面白い(笑)。

 

宇都宮さんの作中主体にはパターナルというか、後輩を見守る先輩、みたいなところがもともとあった。ゼロ年代の読者は、そこにはそんなに反応してなかったと思うんだけど、最近は先輩っぽさを喜ぶ読者が増えた気がして、ちょっと引く(笑)。柴田さんの作品受容も、「あなたです」と言われて喜ぶ読者、みたいなところと関係あるのかもしれません。

 

 先輩っぽさって何だよ(笑)。つまりは決めつけられてそんな気がする、みたいなことだろうか。これに対して花山周子が、宇都宮敦の

 

理科室のつくえはたしかに黒かった そうだよ ふかく日が差し込んだ

 

を例にとって、

 

これも、たしかに理科室のつくえ、黒かったなと思ったんです。それで「そうだよ」と挟まれたときに、急にその記憶が読者である私の側に譲られた感じがした。これはあなたの記憶ですよというのが途中から発生している文体というか。

 

と言っていて、確かにその読みは分かるなー。この「きみのことだよ」感が先輩っぽさなのか(笑)?しかし、私には、この「そうだよ」は、なんていうか

 

この道はいつか来た道 ああさうだよ あかしやの花が咲いてる

(『この道』 作詞:北原白秋,作曲:山田耕筰

 

を思い出させます。だから、究極的には自分の感慨ではなく、この歌の主人公の感慨として読んでいる気がします。結局、自分の経験と重ね合わせることはあっても、その歌が自分の経験のことを詠っているとは思わないわけで、「わたしのもの」として他者の歌を読むという経験は多分しないんじゃないかなぁ。それがいいか悪いかはともかく。

 

 そこからちょっと飛びますけど、斉藤斎藤が短歌における「わたし」についてのまとめで、

 

(前衛短歌がもたらした変化は)第二に、短歌の「私性」を、作者にとっての私性から読者にとっての私性へと、百八十度転回させたことです。(中略)それ(前衛短歌)までの「私性」は、作者が作者の事実を書くことでしたが、それ以降の私性は、読者が作品の背後に見出す人物像、ということになった。この転回により、リアリズムの手法でフィクションを書くことが可能になりました。

(中略)

現代短歌の「事実」とは、読者から見た「事実らしさ」である。だから作品の「事実」判定は、その読者が持つ「ふつう」の物差しに大きく左右される。

(中略)

これは先ほどの「あとがき的私性」とも関わってくる論点ですが。私はこの「読者の『ふつう』の呪縛」が気になるので、短歌は読者のものという論調には、あまり乗れないんですよね。

 

こう言っています。

 ここでは前衛以降は短歌の「私性」は必ずしも作者のことではない、と書いてありますが、その点については今まで散々悩んできたのでとりあえず置いておいて、ここですっごく考えたのは、どうして斉藤斎藤は歌を「事実」として読まれるかどうかということにこんなに拘るんだろうか、ということです。なぜここが論点になるのか?

 

 私は個人的には「短歌は読者のもの」とは全く思ってません。だからこそ、自分の「読み」は正しくないんじゃないか、もっと背景を色々知れば、違うものが見えてくるんじゃないか、って思っていて、作者のことや作者のほかの作品をよく知らない自分の「読み」を常に疑っている。これは、当然、作者が作品内で説明しない意味が込められているとも思っているのもあるし、同じ歌を読んでも他にすばらしい「読み」をする人がいれば、ああ、そっか、って思う。

 結局、なんらかの状況に込めた思いなどを31文字に全て説明しうるはずもなく、連作という前後の状況で補ったところで限界はあり、作者が伝えたかった意味合いと読者が読み取る内容は必ず乖離するでしょう。なので、「短歌は読者のものという論調には、あまり乗れない」というのには納得する一方で、その理由が「読者の『ふつう』の呪縛」にある、というのはよく分からん。

 短歌は当然作者のものであって、作品によって程度は異なるでしょうがそれは作者にとっての「事実」なわけです(実体験から、抽象的な内面の異化まで含めて)。それを、読者が「事実でない」と判定することの問題って何なんだろうか。

 

 短歌を「事実として」読まれる必要性って何なんだろう。ここで言う「読者の『ふつう』の呪縛」として私がぱっと思い浮かんだのは、

 

①「ふつう」恋愛は男女のもので、「きみ」が出てきたら恋人のことで、結婚して姓が変わるのは女性で、歌に登場する人物は日本人の健常者であるetc.というマジョリティ性に特化した読み

 

②「ふつう」こんなことは起こらないから、これはフィクションなんだろうな、という読み

 

の二点でした。斉藤斎藤が言う「ふつう」には他にもいろいろなニュアンスがあるのかもしれませんが、明記されてませんし、私も今他に論点が思い浮かばないのでこの二点について考えてみることにします。

 

 ①に関しては、確かに背景を書きこまなければマイノリティであることには気づきにくいのは分かります。しかしながら、仮に作者の背景がマイノリティであったとして、マイノリティ性を読まれたい歌とそうでない歌があってもいいわけですし。フェミニストの女性が歌を詠んだとして、フェミニズム的なものもあるだろうし、そうでないものもあるでしょう。例えば春日井建が性的マイノリティである事実を公表せずに『未青年』を発表したように、必ずしもマイノリティ的に読まれる必要がない、という場合もあります。

 また、作者がマイノリティである場合であっても、自分の経験に寄せて読んでもいいんじゃないの?例えば作者が同性愛者で同性に対する相聞歌を詠んでいたとして、読者がそれを自分の経験に寄せて、思い描く異性に対する相聞歌に心の中で変換して共感してもいいのでは?確かにマイノリティであるという背景にはある種の痛みや覚悟が常に伴うのかもしれないですが、それを自分の短歌作品において100%読まれなければ正しくない、なんてことはあるだろうか。

 一読者としては、作者の「事実」を尊重したい反面、マイノリティ性も含め、作品内に描写されていない作者の背景にまで忖度した読みを常に100%求められるとしんどいものがあります。

 

 ②に関しては、事実として書いたことが事実として読まれなければ困る、という状況は、やっぱり社会詠の世界かなぁと思ってしまう。

 確かに、ドキュメンタリーだと思って読むのと、フィクションとして読むのとでは違うというのは分かります。以前、『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平)の「洗脳くん」編がマジで胸糞悪くて、でもこれは事実をもとにしたフィクションということを知って、その事件のドキュメンタリー、『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』(豊田正義)を今度は事実であるという前提で読んだのですけど、本気で苦しいというか、気が狂いそうになりました。事実であることの衝撃ってやっぱり否定はできないような気がします。ですが、同時に、アンデシュ・ルースルンドとベリエ・ヘルストレムの北欧ミステリーシリーズ(特に『制裁』とか『ボックス21』)みたいな、事実を裏付けにしたフィクションを読んでいても、やっぱり生々しい衝撃は感じます。

 例えば斉藤斎藤の社会詠でいうと以前に引用した東日本大震災がテーマの「証言、わたし」がありますが、他にも有名なものとして「今だから、宅間守」とか、『人の道、死ぬと町』で知った原爆詠などがあり、それ以前にも『渡辺のわたし』に

 

アメリカのイラク戦争に賛成です。こころのじゅんびが今、できました。

 

勝手ながら一神教の都合により本日をもって空爆します

 

という歌はあって、かなり有名だと思います。

 ですが、社会詠に関しては、その「事実性」を疑われることってあまりないような気もします。「イラク戦争」「大震災」「空爆」「原爆」「フクシマ」すべてが事実ですよね。一方、

 

アメリカのイラク戦争に賛成です。こころのじゅんびが今、できました。

 

について、斉藤斎藤自身が本当に賛成という立場をとっているのか、反戦の意味をこめて詠んだ歌なのか、そういう「読み方」には読者の先入観が多分に入るような気もします。

 この場合、この歌の本意を読み取るにあたっては、どんな読み方が必要なんだろうか。一首の背景を探れば、例えば「今」っていうのは現実的に何年の何月頃、アメリカの情勢がこうだったから、とかそういうことが分かるのかもしれない(私には分かりませんが)。もしくは、「こころのじゅんびが」というひらがな表記(心の準備が、としなかった理由)とか、句読点(、と。が使われている)、あるいは区切れや音のリズムといった技術的な側面から議論が可能なのかもしれない(しかし、素人である私には、この歌に用いられているテクニックによって歌の読まれ方が正反対になりうるのかということについて全く評価できない)。一首を離れて、歌集の前後の歌から推察すべき?(歌集読んだけどよく分からない)斉藤斎藤という作者が実際にどういう政治的信条があるのかを知ってから読むべき?(知らない)

 そういう状態のど素人(私ですが)にだって歌は読まれるわけで、結局は、「これは本当にこう思っているんだろう」と感じるか、「いや、これはアイロニーであろう」と感じるかは読み手の立場が反映される気がします。一読して、「そうだよな」と思うか、「いや、そんなわけないだろう」と思うか。

 しかし、読者の「ふつう」の呪縛、というのは、書いてあることを書いてある通りに受け取れという意味なのか?「ふつう」戦争には反対だよね、だから反戦の歌だろう、という読み方を排し、「賛成」と書いたら「賛成」なんだと?

 斉藤斎藤のこの歌、あるいは大辻隆弘の

 

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき

 

という歌、これらは、結局のところ作者の政治的信条の発露というよりも読み手自身に対する「踏み絵」というか、自分の社会における立ち位置と正面から向き合う「読み」が求められているのだと思いながら読んできたのですが、必ずしもそういう意図ではないのかもしれないなーとこの座談会を読みながら思いました。

 

 一方、一般的な意味での「社会詠」でない歌を引用すると(ただし、みなが「社会」に生きていて現代社会の感覚を詠っている以上すべてが「社会詠」であるという論調もあるらしい)

 

このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか

 

私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる

 

こういう歌、登場人物は「僕」「私」一人なので、当然フィクションとも読めますけど、自分に対するこういう「ゆらぎ感」みたいなのってある程度共有された感覚で、心象風景としての事実としても読めると思う。だがしかし、こういう歌を、事実として読まれたいという切迫した心情が私には分からない。だから、斉藤斎藤がこだわる「事実性」っていうのはどういう歌についてなのかなぁ、って考えるんです。

 

 この議論は作者にとっての「私性」から読者にとっての「私性」への転回、を言っているので、多分必ずしも社会詠に限ったことではなくて、実体験を歌にした時に「読者の『ふつう』の呪縛」を受けずに事実として読まれたい、ということなんだと思いますけど、なんで「事実」として読まれるか否かが論点になるのかがよく分からないんですよねー。

 

 先日昔のM-1グランプリの映像を見ていて、確か「馬鹿よ貴方は」というチームの漫才だったと思うのですが、そこでボケの方が「この中に人の脳を見たことがある人はいますか」ってボケるんですよね。それで誰も手を上げなくて、ツッコミの方がなんかそれに突っ込むんですが(忘れた)、実際人の脳見たことある人ってそこそこいるよな、って思った。だから、「人の脳を見たことがある」がボケになっちゃうことになんだか違和感があって、そういうことが「ふつう」の呪縛なんだろうか。

 歌人って医者の人けっこういますけど(斎藤茂吉とか岡井隆とか)、例えば架空の医者で歌人の人がいたとして、そういう「脳を見た」的な歌読んでたら、きっと歌人の背景を知っていれば、事実だと思って読むかもしれない。でも、知らなければ、「ふつう」脳なんか見たことないだろ、という呪縛から、何らかの暗喩として読むかもしれない。でも、その距離ってそれほど遠いんだろうか。実際の「脳」だったとしても、それを見て何かを感じたから詠んだわけで、それは何かの象徴であることに変わりないだろう、という思いもあります。しかし、本当に生きている、あるいは亡くなったばかりの名前のある誰かの「脳」と、暗喩としての「脳」では違うのではないか、という思いも理解できなくもない。けど、そこまで突き詰めていくと、誰かの体験は決して他者とは共有できない、ということに行きつくしかないような気がする。

 

 来週に続きます。

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