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「一首鑑賞」-10

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

10.殺される自由はあると思いたい こころのようにほたる降る夜

 (斉藤斎藤

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で黒瀬珂瀾が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 それにしても、斉藤斎藤の歌というだけで構えてしまう私がいます。この歌も、『人と道、死ぬと町』の「今だから、宅間守」という連作の中の一首で(ただし、黒瀬珂瀾が引用しているのは(るしおる63号)、とあるので、ここが初出なのでしょうか)、詞書で歌の「事実性」を細かく規定している中の一首なので、果たしてこの歌だけで読んでもいいのだろうか、という葛藤もあり…。

 

 歌の背景とか全部無視して、作者の名前も知らない状態でこの歌を読んだ時に、最初に思い浮かんだのが、森博嗣の『すべてがFになる』でした。以下、ネタバレ満載ですが、(ミステリ小説のネタバレなので注意してください)

 

 

 

 

 

 研究所のシステムには、「すべてがFになる」時間に中に閉じ込められた人間が脱出するためのプログラムが仕掛けられていた、という内容で、そうやって脱出した犯人は、そのトリックを見破った犀川と、リモートで海岸を歩きながらこんな感じの会話をします。

 

「警察に自首されるのですね?」

「自首したのでは、死刑にならないかもしれませんね…。死刑って、いつ執行されるのか教えてくれるのかしら。私、自分が死ぬ日をカレンダに書きたいわ…。こんな贅沢なスケジュールって、他にあるかしら?」

「どうして、ご自分で…、その…、自殺されないのですか?」

「たぶん、他の方に殺されたいのね…」

 

この、「自分が殺される日をカレンダに書きたい」という台詞が強烈に頭に残っています。さらに、こんなことも言っています。

 

「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか?犀川先生…。自分の意思で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意思ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」

 

 

 

 

 他人の意思によって産まれてくるのだから、他人の意思によって死にたい。それが私の「自由意志」だという意味なんだろうか、とこれ読んで感じたのを覚えています。

 

 「今だから、宅間守」では、人を殺すということ、そして死刑になるということ、が色々な角度から描かれています。

 この「殺される自由」があると思っているのは、誰なんだろう、と思った。斉藤斎藤本人というか、誰か「罪のない人」、一般人を想定しているのだろうか。それとも、誰かを殺した人間を想定しているんだろうか。これももしかしたら「成り代わり」の歌なんじゃないだろうか、「死刑になりたかった」という動機で人を殺す人たちがこの歌の作中主体なのではないか、と考えました。

 

 一方、黒瀬珂瀾はこの歌の読みとして、

 

「殺される自由はあると思いたい」。そう思う裏で作者は、どこかで気付いたのではないか。私たちには〈本当の意味で己の命の在り方を自己決定できる自由〉が無いのだ、と。殺されることが不条理ならば、生きることも不条理かもしれない。殺す者と殺される者、つまりはすべての者の心のように、ほたるが闇をさまよう時代を、声もなく見つめる一人が、ここにいる。

 

 結局のところ、産まれてくることも、生きていることも、死ぬことにも、自由などはないと。

 最近「親ガチャ」という言葉が世間を騒がせていますが(2021年の9月頃に書いてます…)、自分の人生のどこまでが自分の意思で、どこまでが「ガチャ」なんだろうか?他人の手によって死ぬ日がすでに決まっている、ということは、「ガチャ」的な要素を究極まで排していると言えるのかもしれませんが、それを選ぶ「自由」はあるといえるのだろうか。

 

 同じページには、

 

人を殺す自由はあると思いたい ことばの上でかまわないから

 

という歌も引用されています。「ことばの上でかまわない」なら、そのような自由はあるだろうし、というかその場合は「人を殺す」という言葉の定義上の問題になってきそうですね。

 「もう顔も見たくない!お前は(俺の中で)もう死んだんだ!」(お前はもう死んでいる…って書きたかったけどやめた笑)って言い方あるでしょ?これって、脳内では殺してますよね?そのような「殺す」であるとして冒頭の歌を再び見ると、誰に「殺され」ようとも自由に生きる、という意味に取れなくもないな。親に勘当されても我が道を行く的な。

 

 まあ、そういう意味の歌ではないですのでどうかみなさま歌集で、連作の中の一首としてご覧ください。黒瀬珂瀾が引用したと思われる「るしおる63号」ではどうだったのか分かりませんが、歌集ではこの2首には詞書がついていて、そこには

 

青木さんと蛍を見に行く。

蛍を見ていると、青木さんをあっさり忘れる。

それは、それを、ありがたいことと思うのだけれど、

 

と書いてあります。これを読むと、やっぱり作中主体は「青木さん」と一緒にいる誰か普通の人(殺人犯とかではなく)かなと思うのですが。

 

 一首読みを拒絶するようなこの提示の仕方、個人的には(好きか嫌いかというよりも)ちょっと困るのですが、歌をどう提示するかは歌人の自由だし、それをどう読むかは読者の自由だとも思ってる。

 

 

問3のあのとき作者の気持ちとか知るわけないって思ったくせに (yuifall)

 

 

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