山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」
これ、いきなり混乱するよね(笑)。名前が斉藤斎藤なのに、いきなり「渡辺」だし。お箸とスプーンという会話からはコンビニっぽいのに名を名乗ってるし。そして店員さんの対応に萌えます♡「渡辺さん」、って優しいな。本当にこう言ってもらえるのか試してみたくなりますが、マクドナルドでスマイルゼロ円を頼むくらい勇気がいりますね…(今もやってんの?)。しかも、人によるだろうな…。コンビニバイトの経験ある人に、こんなこと言われたことあるか聞いてみたい(笑)。解説には、
斉藤斎藤の歌に満ちているのは「自己」という存在への実存的な問いかけであるのは明らかです。
と書かれています。今となっては斉藤斎藤の作風と「私性」の議論とが切り離せないというのはほとんど常識かもしれないのですが、当時からそういう認識だったのかなぁ。それとも山田航の慧眼でしょうか。
お母さん母をやめてもいいよって言えば彼女がなくなりそうで
この歌も、最初このコーナーで出会ったときは「母」という存在における「わたし」性についての歌なのかなって思って読んでいました。その後歌集『渡辺のわたし』を読む機会があって、読んでみると、「父とふたりぐらし」という連作の一首だったのですが、タイトルからしてもう母は不在です。読んでいくと、教育熱心だけどそれほど裕福ではない家庭という感じで(事実かどうかは分かりません)、
中卒の母の執拗な執念の幼児教育の結果この歌
こんな歌もありました。お母さんは早く亡くなってしまったみたいで、
渡辺のわたしは母に捧げますおめでとう、渡辺の母さん
という歌もあり、「渡辺」は母の旧姓であるというのをどこかで目にしたことがあったような気もするのですが定かではない。
しかし、単純に「母に捧げた歌集」と考えるにはちょっとブラック過ぎる雰囲気というか「執拗な執念の幼児教育」だし、母をやめたら彼女がなくなる、というのは第三者の目線からすると献身的な母にも思えますが、子供の目線からすると、親の人生をも背負わされる重さが感じられてちょっと怖いっす。一人の女性には「母」以外にもアイデンティティがあるはずなのに、「母」をやめれば彼女がなくなりそう、というのは、彼女のアイデンティティが「母」で占められているように見えるということではないだろうか。「母」でいるためには「子」が必要ですから、それは他者に依存した自我ということになり、依存されている方にしたら恐ろしいですよね。
この人は『短歌タイムカプセル』でも登場していて、そこでは震災の歌がすごい迫力で圧倒されたのですが、この記事は2008年のものなので震災前ですね。『短歌タイムカプセル』を読んだときは、前半10首はシュール路線で後半10首が震災の歌で全然トーンが違う、と書いたのですが、この解説を読んでから見直すと、一貫して「社会の中の自分」という目線があるのかもしれないなと思いました。
解説に
実存という哲学的テーマと、言語トリックという文学的テーマと、自分が置かれた社会的立ち位置。それらがないまぜになって斉藤斎藤という新しい「モード」は作られたわけです。
こうあって、この記事の後に出た生々しい震災詠も、もしかするとその「モード」の線上にあるのかもしれません。
意義はない、なぜなら、ここにないものは(ここには)(どこにも)ないものだから (yuifall)
*笠井潔 『バイバイ、エンジェル』