「一首鑑賞」の注意書きです。
165.ケータイで君と話せばくっきりと雨上がりのマンホールの蓋が
(斉藤斎藤)
砂子屋書房「一首鑑賞」で永井祐が取り上げていました。
これは歌集「渡辺のわたし」収録作のようです。この歌集持っているのですが、自力では目に留まらなかった。そういう歌があるので、誰かの鑑賞文を読むのがとても好きです。この歌の面白さにも自力では気付けなかった。
情景としては単純で、雨上がりの道を誰かと電話しながら歩いていて、目線が下の方にあって、ふと雨上がりのマンホールの蓋がくっきりと浮かび上がって見える。でも、それだけです。別にそのことを「今マンホールの蓋が」とか話したりはしなかったと思う。それどころか立ち止まって見たりすることもなかったのでは。
鑑賞文にはこうあります。
最後が「蓋が」で言いさしの形になっている。
(見えた)などが省略されているのかと思いますが、これによって、マンホールの蓋が妙にくっきりと見えたことが、意識のランダムの流れの中のちょっとした乱気流みたいにして起こったことがわかる気がします。
たとえば「マンホールの蓋」が体言止めになっていたら、歌の流れと意識がそこで止まり、焦点がしっかりそこに合う形になるかと思います。
この歌の場合は止まらないでそのまま流れていく。
口にも出さないし、(あ、マンホールの蓋がくっきり見える)みたいな心内語もないような、意識の流れの中の短い変な偶然みたいなものがとらえられているのかと思います。
それだから、とりあえず意味はないようなことで、それでいて歌の先に世界が実在している感触はある。雨上がりのマンホールの蓋。
(あ、マンホールの蓋がくっきり見える)みたいな心内語もない、という表現がとても心に残りました。そうか、口に出さないだけじゃないんですね。わざわざ言葉にして考えもしないようなちょっとした意識のひっかかり。そこに焦点が当たっている歌だからこそ面白いと思うんだ。
この「一首鑑賞」コラム内ではもう一首引用されています。
カラオケに行くものだからカラオケに来たぼくたちで20分待ち
これはめちゃくちゃ「分かる」というか、混んでる場所に行った時、俺らみたいなのがいるから混んでるんだよね、って思うあの感じですよね。斉藤斎藤の歌の、視点が自分の内側にない感じが好きです。
人間の同一性を定義して眩しいほどの言葉の綾で (yuifall)