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短歌の「私」 ⑫

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 ところで、斉藤斎藤が、前衛短歌によってもたらされた変化として、

 

第二に、短歌の「私性」を、作者にとっての私性から読者にとっての私性へと、百八十度転回させたことです。

 

と言っていると書きましたけれども、じゃあで「第一に」何を言っているかというと、

 

第一に、さっき挙げた塚本邦雄の歌のような、神の視点と喩の導入。作品世界の外側に話者を置くことで、リアリズムでは描けないスケールのフィクションが可能となり、短歌の可能性が大きく広がりました。ただ、ひとつ副作用があって、この方法で作られた作品は、作者のプロフィール的な私性から自由になる反面、作品世界が作者の作家性と直結し、「わたしと世界」ではなく「わたしの世界」になり、ちょっと油断すると「〇〇(←作者の名前)ワールド」化してしまうところがあります。

 

と書いてありました。

 「わたしと世界」「わたしの世界」「〇〇ワールド」についてはすでに触れたので再度触れませんが、同じムック本の中に大辻隆弘の『「私性」という黙契』という寄稿があって、そこではやはり塚本邦雄の歌が引用され、このように話が展開されています。

 

夕顔のしぼむ時刻とタブロオの裸婦の身許を知る波斯猫

 率直にいえば、この歌からは、先の二首のような人物イメージを感じ取ることは難しい。(中略)この歌には「登場人物」はいない。「視線の主」も想定しがたい。(中略)では、この歌には「私性」が全くないのか、というと、そうではない。(中略)この歌を読むとき、私たちはこの歌を作った人間の西洋趣味や濃密な美意識のようなものを感じ取ってしまうだろう。(中略)その人物の印象は、この歌の前後に配されている次のような歌々を読むことによって、いっそう堅固なものになっていく。

花合歓は消えたラムプのくらがりに囁きてをり。はるかな巴里祭

(*注;「消」は漢字が違いますが、変換で出ませんでした)

アスパラガスの林にひびく輕音楽、皿はグラスに重なり睡る

(中略)このような歌を読むとき、私たちは、先の歌を読んだ時に感じた強固な美意識を改めて感じる。そして、その強烈な個性に威圧されてしまう。私たちは、これらの歌の背後に、強烈な意志と個性を持った「言語構築の主体」という人物像を感じ取ってしまうのである。

 

とあります。これこそまさに塚本ワールドじゃないですか?だから、ワールドが必ずしも悪いとは思わないし、ワールド構成力の高い歌人の歌の魅力はすごいと思うのですが、個人的には、塚本邦雄ワールドにも東直子ワールドにも水原紫苑ワールドにも葛原妙子ワールドにも荻原裕幸ワールドにもうまく入れないタイプなので、現実と地続き(「わたしと世界」)だと嬉しいという気持ちはどこかにあります(笑)。

 

 この前衛短歌論の前には何が語られていたかというと、これまでの短歌における「わたし」のざっくりとしたまとめであり、斉藤斎藤によれば

 

短歌の「わたし」の前提になったのが、近代短歌の「写生」です。近世の和歌は、基本的には題詠で、梅にうぐいす的なお約束の技術や、お約束からの微妙なずれのセンスを競うものだったと。そこに正岡子規は、実景をカメラのように写す「写生」を導入しました。

(中略)

その後「写生」をめぐって、いろんな歌人がいろんな作品や理論を残しているんですが、長い間覇権を握っていた結社「アララギ」の歌人たちは、基本的には「生活即短歌」(土屋文明)だと、実生活に即して詠むのが基本だよ、と言っていた。この「生活即短歌」というスローガンには、一般会員とプロ歌人とでちがう意味に聞こえるような、顕教密教を兼ねたようなところがありましたし、アララギ歌人の歌が事実だけを詠っているわけでもないんですが、基本的には作者の実生活が尊重されてきたと。それを大きく変えたのが、前衛短歌です。

 

ということです。

 ここで「アララギ」から「前衛」への流れが語られる一方で、花山周子からは

 

これはいつも気になっていることなのですが、アララギ→前衛→ニューウェーブみたいな流れというのは、短歌全体の流れの中では特殊だったという視点は入れたいんです。アララギの写生は、和歌とはちがう近代短歌の一つのあり方として発明だったというのはある。(中略)和歌的なものは同時進行で残っていて、この和歌性が前衛短歌以降ドッキングしたところがある。

 

という指摘があります。これ、すごく面白いなと思ったのですが、これを受けて次に斉藤斎藤

 

一首の視点をひとつに限定する「写生」の方法は、日本語としてはかなり特殊で、和歌の視点は、一首にひとつではないんですね。(中略)そもそも日本語には、貫之紀貫之の歌のように、語り手の今が時間軸を自由自在にスライドする性質があるんですね。(中略)時には物語の外に出て、お客さんや読者をくすぐったりもする。(中略)アララギの影響下で短歌を作っていても、一首に複数の時間が入って来たりして、和歌的な書き方も根強く残ってゆく。それが日本語の生理なのかもしれません。

 

と言っています。

 

 そうか、短歌っていうのは、漫談みたいなものなのかも。語り手がいて、物語を語るんだけど、それは自分のことであったりそうじゃなかったりして、時々現実にはみ出して語りかけてくるというか。だから語り手である「わたし」と、物語の主人公である「わたし」が二重に存在するのは取り立てておかしいことではないのかもしれません。鑑賞にあたっても、「この物語面白いね」、って聞き方でも、「この人しゃべり巧いなー」って聞き方でも、どちらでもいいのかも。

 

 結局のところ「短歌」に限ったことではないような結論になってしまいました(笑)。昔、林家木久蔵さんの(今は木久扇さん)落語『桃太郎』を聞いてすっごい面白かったの思い出した。その後他の人の『桃太郎』聞いたのですが話の内容も語り口も違っていて、落語って同じ話をしゃべるものだと思っていたんですが全然違うんだな、ってびっくりした。あの『桃太郎』、どこかに収録されているのかなぁ。また聞きたいけど探せずにいます。ここにも多分木久蔵さんの「わたし」と、『桃太郎』の「わたし」がいたんだろうなーと思いました。

 

 来週に続きます。

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