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短歌の「私」 ④

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

<短歌の「私」記事一覧>

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短歌の「私」に補足 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 次に、宇都宮敦が「わたしの世界」「わたしと世界」について語っています。簡単にまとめると、

 

「わたしと世界」

・「わたし」よりも世界の方がえらい感じ

・微量な世界への働きかけがあり、その働きかけに対して世界から見返りはないし求めていない

「わたしの世界」

・歌のモチーフの関係性がなんらかの象徴性を帯びていたり、自分の内面の反映したものとして描く

・世界を「わたし」に奉仕させる

 

だそうです。

 

 個人的には、単純に他者の目線を意識し、意味を提供しようとしている場合「わたしと世界」、歌の意味が自分の中で完結している場合「わたしの世界」と受け止めていました。ああ、この人の世界には入れないなーって感じる歌ってありますから…。でも私のその解釈だと、ある歌が「わたしと世界」に分類されるか「わたしの世界」に分類されるかは私の理解力次第ということになり(笑)、ちょっとそれはないなって自覚もあります。

 ちなみに「わたしと世界」の例として

 

堀ばたで追いかけられていたカモが今日はアヒルと仲がよさそう (仲田有里)

 

「わたしの世界」の例として

 

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ (岡井隆

 

が挙げられています。

 正直この2首を「わたしと世界」―「わたしの世界」の対比に挙げられても、テイストが違いすぎてよく分からん(笑)。『シャーロックホームズ』と『ビブリア古書堂の事件手帖』を比較してるみたいじゃ(笑)。そして宇都宮敦は

 

私は「わたしと世界」を描こうとしている歌に肩入れしていて、

 

と言っているのですが、なんかうーん…、ってなった。

 

 上にも書いたように、私はもともと「わたしの世界」っていうのは、ワールド系というか、他者が含まれない世界観というか、現実を超えた自分ワールドをイメージしてたので、そうではなくて現実や他者を短歌に取り入れよう、「わたし」と「世界」が向き合おう、というのが「わたしと世界」だって考えてたんですよね。

 この座談会の後の方で斉藤斎藤

 

(前衛短歌には)ひとつ副作用があって、この方法で作られた作品は、作者のプロフィール的な私性から自由になる反面、作品世界が作者の作家性と直結し、「わたしと世界」ではなく「わたしの世界」になり、ちょっと油断すると「〇〇(←作者の名前)ワールド」化してしまうところがあります。

 

と書いていて、この発言上の「わたしと世界」「わたしの世界」「〇〇ワールド」は私の感覚に近いと思う。

 でも宇都宮敦の定義だと、「世界の片隅にいる自分だけどちょっとこんなこと思ったよ(まあそれに対してどう思おうがいいですけど)」みたいな感じが「わたしと世界」で、「世界がこういう風に見えるのは私の気持ちがこうだからなんだろう(それが事実であってもそうでなくても)」が「わたしの世界」ということになってしまいますよね。

 

 そしてこのディスカッションの続きとして、

 

(「わたしの世界」では)世界を「わたし」に奉仕させる。先ほど、短歌特有の「わたし」はいないと言いましたが、このようにして詩的に高められる「わたし」というにはその候補たりえるかもしれません。

 

と発言しています。

 これもちょっとよく分からん。正直、「何らかのモチーフが象徴性を帯び、自分の内面を反映させている」、というのは、むしろ下手な小説でよく見られます(笑)。要はこの小説ではあんたのこういう主張が押し付けられてるんやな?みたいなやつ。いわゆる「人間が描けていない」系ね。これを「詩的に高める」領域に持っていくのは、「短歌特有」というよりも書き手の力量なのでは、という気も…。

 

 次にこの短歌

 

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ (岡井隆

 

についての読みが語られているのですが、宇都宮敦は

 

(前略)情景と心情の二パートからなる短歌において、心情が情景に対する意味的な喩になっていて、同時に情景が心情に対する像的な喩になっているというのがいわゆる「短歌的喩」です。この歌だったら、「灰黄の枝をひろぐる林」という情景が「亡びんとする愛恋ひとつ」のようだと意味的に喩えられていると同時に、「亡びんとする愛恋ひとつ」という感慨が「灰黄の枝をひろぐる林」のようだと像的に喩えられています。これが同時に成り立つということは、失われつつある一つの愛恋のために、林が灰黄の枝をひろげてくれていることを意味しています。そんなことあってたまるかと私なんかは思ってしまうのですが、実際、一回一回読むときは、どちらか一方でしか読めないはずです。(以下略)

 

この後は「無限遠点的な読み方」の議論になっていくのですが、ここ、ちょっとひっかかったんですよね。宇都宮敦は

 

失われつつある一つの愛恋のために、林が灰黄の枝をひろげてくれていることを意味しています。

 

というふうにこの歌を読んでいるので、「わたしの世界」、要は「世界がわたしに奉仕する」と考えている。だけど、これって単純に、斉藤斎藤が言うように、

 

岡井さんの灰黄の歌で言うと、「私の恋が終わろうとしている」(三人称)、だからだろうか、「(私には)灰黄の枝を広げる林が(やけに印象深く)見える」(一人称)みたいな。わたしの感じ方や見え方は、わたしの属性や環境に、規定されている部分もあれば、されていない部分もある。だから主観と客観を接続詞抜きにぽんと並べて「合わせ鏡」にしていると。

 

という読み方なのではないかと思っていたんですよね。目の前の情景(あるいは心の中の「情景」)と心情が重なった時に、それがお互いの比喩として働き、「合わせ鏡」的になることは理解できるし、情景+心情というのは短歌でよくある手法かとおもうのですが、それについて

 

これが同時に成り立つということは、失われつつある一つの愛恋のために、林が灰黄の枝をひろげてくれていることを意味しています。

 

というロジック、つまり世界がわたしの「ために」ある、という読み方がどうしても分からなくて。さらに言うと、そこが納得できないゆえに「わたしの世界」「世界をわたしに奉仕させる」というロジックも理解することができないんですよね。

 

 次週へ続きます。

yuifall.hatenablog.com

2022年5月28日追記

後日考えを改めたことがあったので、参考記事を貼っておきます。

yuifall.hatenablog.com